徳島市津田地区の空襲被害を語る林さん=徳島市津田本町5の自宅

 1945(昭和20)年6月5日朝、米軍のB29爆撃機1機が徳島市津田地区を襲った。投下される無数の焼夷(しょうい)弾。生まれ育った町が燃え広がる光景に、当時17歳だった林信義さん(89)=同市津田本町5=は涙が止まらなかった。

 「午前8時半ごろ、突然B29の爆音が聞こえたと思ったら、焼夷弾が落ちてきた。逃げる間なんてなかったな」。津田港の造船所で働いていた林さんは慌てて建造中の船の下に隠れたが、たちまち辺り一面が火の海と化した。

 当時、市民は消火活動が義務付けられていた。林さんも仲間と共に警防団の小屋から手押しのポンプを引っ張り出し、海水で火を消そうとしたが「ちょろちょろとしか水が出ず、何の役にも立たんかった」。

 県史には「民家33戸焼失」との被害記録が残っている。林さんによると、津田地区は土が軟らかかったためか地面に突き刺さったままの不発弾が多く、都市部に比べて被害が少なかったという。

 林さんの自宅近くの家では、屋根を突き破った焼夷弾が不発のまま部屋に転がっていたこともあった。「いつ発火するか分からず、恐る恐るみんなで抱え、裏の畑に捨てた。生きた心地はせなんだな」と振り返る。

 津田地区が狙われたのは、五つあった造船所が兵士を運ぶ「上陸用舟艇」を造る軍需工場になっていたためとみられる。

 資材を運ぶ周辺の輸送ルートも襲撃の対象になり、林さんは他に3度経験している。

 44年11月22日、軍事訓練から帰る途中、津田橋の上空で旋回するB29を目撃した。投下された1発の爆弾は橋から300メートル離れた場所に落ち、雑貨などを運搬する船を直撃した。しばらくして、船を掃除していた女性が爆風で亡くなったと聞いたという。

 詳しい時期は覚えていないものの、勝浦浜橋を狙ったとみられる空襲もあった。橋近くにあった林さんの同級生の家を木っ端みじんにし、地面には直径と深さ約10メートルの穴ができた。「同級生は別の場所にいたので助かったが、家族や親類6人が犠牲になり、胸が張り裂けそうになった」

 徳島市中心部が大きな被害を受けた徳島大空襲があった7月4日も、津田地区は空襲に見舞われた。

 市街地への空襲後の午前8時半ごろ、新町川方面から低空でB29が3機飛んできた。「焼夷弾を雨あられのように落としていった。もう戦争はこりごりや」と声を震わせた。

 林さんは空襲体験の語り部として、約10年前から地元の小中学校で戦争の悲惨さ、平和の尊さを伝えている。「子どもたちに空襲の恐ろしさを知ってもらいたいが、決して味わってほしくない」。戦後70年余り守ってきた不戦の誓い。林さんはいつまでも続くことを願っている。