太平洋戦争下、徳島大空襲以外に県内各地を襲った空襲は人的被害がなかったものも含めると、少なくとも17市町で65カ所に上ることが、徳島新聞のまとめで分かった。市町村史などに記載がなく、戦争体験者の証言から判明した空襲もあった。戦後72年。戦争体験者は高齢化しており、一連の取材を通じて戦禍の掘り起こし作業の重要性と、伝えていくことの大切さを改めて痛感させられた。

 県内では戦争末期の1945(昭和20)年3月以降、空襲が本格化した。徳島市内の約6割が焦土となった7月4日の徳島大空襲をはじめ、6月22日の秋田町空襲(徳島市)や7月30日の那賀川鉄橋列車銃撃(阿南市)など、被害が大きい空襲は各史料に割と詳しく記されており、後世に語り継ぐ活動も行われている。

 一方で史料には残っているが、死傷者数や焼失戸数といった被害状況が不明なケースが少なくない。「鳴門海峡付近 銃撃 死者一名」などと1行分の情報しか掲載されていないケースも目立つ。

 例えば、徳島市蔵本町では45年7月24日に爆弾が落とされ、約70人が亡くなったとされる。県内では有数の被害規模だが、負傷者数については、分かっていない。

 現在の吉野川市、美馬市、三好市といった県西部や山間部も空襲に見舞われているが、それらの戦禍を知っている人は少ない。

 その一部でも事実の確認ができないか。史料に載っていない空襲被害もあるのではないか。そんな思いから調査と取材を始め、多くの体験者に話を聞くことで、被害の状況が確認できた。

 体験者の証言から明らかになったケースもあった。終戦間近の8月10日ごろ、阿波市市場町では男子学生が機銃掃射で負傷していた。体験者は鮮明な記憶で当時を振り返った。

 紙面に掲載後、徳島新聞には多くの情報が寄せられた。「山川町の川田川で遊んでいた子どもが機銃掃射で狙われた」「鴨島町の山中に爆弾が落ちた」。当事者ではなかったため、詳しいことが確認できず記事化には至らなかったが、まだまだ埋もれた戦禍があるのかもしれないと感じられた。

 県立博物館の長谷川賢二学芸員は「戦後72年がたち、公的機関の史料が新たに出てくることは難しい。戦禍を詳細に調べるには体験者の証言のほか、戦時中の日記や手記といった民間資料の発掘が重要になる」と指摘している。

 約千人の死者が出た徳島大空襲と比べ、被害の少ない空襲は顧みられる機会が失われている。しかし被害の有無や大小に関わらず、多くの県民が米軍機の襲来に不安や恐怖を抱いた。家を焼かれ、大切な人を亡くした。一つ一つの空襲の背景には、それぞれに悲劇がある。平和への教訓として生かすために、戦禍を埋もれたままにしてはいけない。