戦時下を生きた人々の「日常」を記録に残し、平和の尊さと戦争の愚かさを考える機会にしたい―。そう考え、投稿を7月に呼び掛けた。当時、未成年だった世代を中心に、子や孫による聞き書きも含め、70通を超すエピソードが寄せられた。歓声、笑い声、苦しみ、悲しい涙、うれしい涙・・・。行間からは感情があふれ、それぞれの場面が浮かんできた。

家族と囲んだ食卓の光景も時代を映す。サツマイモや枝豆、桑の実のおいしかった思い出は恐らく恵まれている方。落ち穂の米粒を集めて炊いたおにぎり、穀物のふすまを原料にした主食、木の芽など、戦況の悪化につれ、苦しさがにじみだす。遊びの記憶や家族の絆も多く寄せられた。
悲しい体験をつづった投稿も目立った。疎開していた姉が東京に戻った直後に大空襲で命を落としたことへの親の悔恨、満州引き揚げ後、子どもたちに向かって「みんなで死のう」と一度ならず声を掛けた母・・・。
祖母から戦時中の話を聞かされてきたという中村佐也加さん(38)は、3人の子を授かった今、「相手の痛みを自分の痛みと同じように想像できる人間に。日々、感謝の心を忘れずに」。祖母の言葉から受け取った思いをそう表現した。
2016年、太平洋戦争前後の広島を舞台にしたアニメ映画「この世界の片隅に」が公開され、ヒットした。このページで存在感を放っている女性のイラストが主人公のすずさんだ。
映画ではのんびりとした性格のすずさんの視点を通じ、当時の日常が描かれている。そんな生活も次第と戦争の影が色濃くなり、そして頭上から爆弾が降り注ぐ日がやってきた。
体験者の話をもとに、日々の生活のかけがえのなさを知るほど、戦争の残酷さが見えてくる。今回の投稿で描かれた日常も、まさに戦争と隣り合わせだった。戦争を知らない私たち子や孫の世代が、平和を願うバトンをどうつないでいくか。体験者の高齢化が指摘され、既に久しい。だからこそ、記憶継承の必要性は年々増している。
戦地に赴いた人たちの話を聞くのは相当難しくなった。しかし、今回のように「日常」の記憶はまだ私たちの周りに数多くある。その話、その光景を、私たちがどう受け止めるか。8月15日は終戦の日。「記憶のかけら」にこれからも耳を澄ませ続けたい。
エピソード紹介
- 楽しみにしてたクジラの肉が・・・
- もんぺで入学式
- 「ばあちゃんがつかまった…!」
- 心待ちにした靴の配給
- 顔も知らない初恋の相手
- もんぺと国民服で結婚式
- 天からの贈り物のはずが
- 兄を探しに大阪駅へ
- すし詰めの列車の中で
- 一度「お父さん」と呼びたかった
- 桑の実の思い出
- 長屋で暮らしたあの頃
- 母の姉はラジオアナウンサー
- 呉で迎えた終戦
- 家族で暮らした大連の記憶
- 写真館での記念撮影
- ヒガンバナの花言葉
- 弁当がなくなった
- 8月15日、天窓から見えた青空
- 「この子に毛布貸して」
- 東京に戻った姉
- 「ただいま」と知らないおじさん
- 5人の娘連れて満州引き揚げた母
- カタツムリやカエルにしょうゆ
- 「まだ死にたくない!」
「日常」が今と戦時つなぐ
太平洋戦争と徳島Q&A
「すずさん」見つけて 今後も投稿募集

この特集企画「戦時下の暮らし 記憶のかけらを集めて」は、全国の地方紙やNHK、ウェブメディア計12社によるキャンペーン「#あちこちのすずさん」と連携しています。戦時中でも小さな楽しみを見つけて懸命に暮らしていた「この世界の片隅に」の主人公すずさんのような人たちを全国で探し、戦争の記憶をつなげていこうというキャンペーンです。
ツイッターやインスタグラムなどのSNSを「#あちこちのすずさん」で検索すると、各社に寄せられたエピソードが読めます。もちろん、みなさん自身が「#あちこちのすずさん」を付けて、投稿するのも大歓迎。あなたの身近なところにいる、あるいはいた、すずさんを、みんなに教えてください。
徳島新聞社は今回の特集後も投稿募集を継続し、後日、紙面やウェブサイトで随時紹介します。短文や長文、写真、絵をお寄せください。写真や絵は中身に関するコメントもお願いします。現物は後日返却します。
応募は投稿者の氏名、年齢、住所、連絡先(電話番号かメールアドレス)を明記の上、〒770―8572(住所不要)徳島新聞社編集委員室「戦時下の暮らし」係か、メールで<newsroom@topics.or.jp>へ。問い合わせは編集委員室<電088(655)7233>。