「戦時下の暮らし 記憶のかけらを集めて」は、全国の地方新聞やNHK、ウエブメディア計12社によるキャンペーン「#あちこちのすずさん」との連携企画。7月に投稿を呼び掛け、集まったエピソードを紹介する。

 

徳島県阿南市中大野町・池田行子(80)

 祖母は30歳の頃、5歳と3歳の子どもを抱えて大阪で空襲に遭った。夫は出兵していた。子どもを抱え、無我夢中で逃げた。電信柱の下で悲鳴を上げる人がいても、誰一人助けようとしないどころか、燃えている電信柱を踏みつけて先に進む。祖母も、後ろから押される中で、「こんな地獄は嫌!」とつらい思いをしながら思い切って電信柱を越えた。

 その後、罹災証明書をもらって汽車に乗るよう勧められた。大阪駅まで歩いたが、罹災者でいっぱいだった。1時間ほど待って乗車券をもらったが、ホームに入ってきた汽車は人であふれている。窓から体が半分出た人たちもいっぱいいる。何人か乗っただけで汽車は発車した。次の汽車も、その次の汽車も同じ状態。その日は乗れないまま夜になった。

 翌日も、何列車かを見送った。次の列車がホームに入る。ある窓からこちらを向いた女の人が声を掛けてきた。「窓から乗れますよ」と。近くの男の人が手伝ってくれ、窓から子どもを放り込み、女の人が受け取った。男の人に足を持ち上げられた祖母を、列車の中の3人くらいの人が引き上げた。やっと列車に乗ることができた。

 窓枠に必死につかまってぶら下がる若い男の人がいた。すし詰めの列車はそのまま動き出した。奥の方から太い大きな声がした。「おーい、少しずつ寄ったれ」。みんなは少しずつ寄り合って、窓側に少しの隙間を作った。大勢で協力し、男の人を中に入れた。悲惨などん底の中、暗闇に一筋の光が差し込んだ出来事だった。

 ―以上は、娘(51)が中学生の頃、今は亡き私の母から聞き取り、夏休みの宿題で書いたものの一部だ。手元に置いておいたので今回、応募した。登場する5歳の子どもが私である。