「戦時下の暮らし 記憶のかけらを集めて」は、全国の地方新聞やNHK、ウエブメディア計12社によるキャンペーン「#あちこちのすずさん」との連携企画。7月に投稿を呼び掛け、集まったエピソードを紹介する。

 

徳島県吉野川市山川町・鹿児島康江(67)

 1929年生まれの亡き母の少女時代の思い出である。

 母の兄は三重県鈴鹿の陸軍に通信兵として入隊した。夏の日、電報が届いた。部隊が中国・上海に出征することになったので、大阪まで会いに来てほしい、と。「自分の乗った列車が大阪駅で一時停車する。そのわずかな時間に両親に会いたい」と言うのだ。養蚕が忙しい時期だった親たちに代わり、15歳だった母が行くことになった。

 木綿の一張羅のブラウスにもんぺ、素足にげた履き。背中にはにぎり飯とはったい粉を詰めたリュックを背負う。山瀬駅から汽車に乗り、小松島港からは船に乗り、大阪の天保山に着いた。空襲で焼け野原の街が広がる中、人に聞きながらやっとの思いで大阪駅へ。

 駅に行けば兄に会えると思っていたが、なんと大阪駅の大きいこと。改札口がいくつもあり、大勢の人でごった返している。兵隊さんとすれ違うたび、「鈴鹿部隊ですか」と尋ねて「違う」と返された。とうとう足が棒のようになり、座り込んでしまった。

 どれくらいたったか、「もう帰ろう」と腰を上げたとき、軍需工場で働く女学生の一団を見た。するとその集団に、「文ちゃんでえ。こんなところでどうしたん」と叫ぶ少女がいる。学徒動員で数カ月前に出て行った姉の光子だった。抱き合ってオイオイ泣いた。

 取りあえず二人で駅構内の案内所に行き、長蛇の列の最後尾についた。すると、向こうから若い兵隊が走ってくる。兄だった。にぎり飯を頬張り、「父さん、母さんは元気か? 妹や弟たちは元気か?」と矢継ぎ早に質問する兄。すぐに出発のベルが鳴り始め、兄を乗せた汽車は出発した。

 ―このような戦争の体験談を聞かせてくれた母は7年前、85歳で他界した。もっと聞いておけばと思っても、もう声はしない。