「戦時下の暮らし 記憶のかけらを集めて」は、全国の地方新聞やNHK、ウエブメディア計12社によるキャンペーン「#あちこちのすずさん」との連携企画。7月に投稿を呼び掛け、集まったエピソードを紹介する。

 

徳島市北矢三町・能田勤(88)

 農家の長男に生まれた。7人兄弟の2番目。父が「1ダース(12人)産んだら表彰される」と冗談で言っていた。

 お蚕を飼っていたので、えさにする桑を畑で育てていた。桑の実はおいしいけど、口が真っ赤になる。ある日、女の子が畑のそばにいて「何食べよんな」と声を掛けたら「何や食べよれへん」と。とはいえ、口の周りは真っ赤。ばればれでおかしかった。

 トンボがようけおった。ひもの両端に石をくくりつけて、上に投げるとトンボを引っかけて落ちてくる。トンボ捕りのうまいんがヒーローになれた。

 家の隣が当時、大麻街道と呼ばれる道で、食材を積んで中洲の市場まで行く馬車が通っていた。馬が道を覚えとるけん、運転手は眠っとる。なので、荷台に飛び乗ってもばれなかった。学校に行く道中などによく勝手に飛び乗って運んでもらった。

 毎年、暮れになると、おもちを2俵か3俵ついた。半日はかかった。左足を出してつけとアドバイスされた。おへぎやあられにして食べたり、焼いてしょうゆを付けて食べたり。

 父の弟が出征するのに蔵本駅まで見送りに行った。日の丸を振って送った。竹の筒を持っていて、「何を入れるん」「水とかお茶とか」とやりとりしたことを覚えている。叔父は台湾に行って、負傷して帰ってきた。

 家の裏に防空壕を造っていた。7月4日の大空襲の時は、ここから新町の方が花火みたいに見えた。その光景に思わず見とれたというか、心奪われたというか。それが佐古へ、そして田宮へとだんだん近づいてきた。怖くなり防空壕に逃げ込んだ。隣の街道は、鮎喰川へ逃げる人でいっぱいだった。

 空襲で、通っていた千松の学校が焼けた。見に行ったら、すずりが白くなって点々と残っていた。その後は佐古の学校に通うようになった。