「戦時下の暮らし 記憶のかけらを集めて」は、全国の地方新聞やNHK、ウエブメディア計12社によるキャンペーン「#あちこちのすずさん」との連携企画。7月に投稿を呼び掛け、集まったエピソードを紹介する。

 

徳島市丈六町・太鼓地恵子(77)

 戦後75年がたち、1943年生まれの私は77歳になりました。徳島空襲があった45年はまだ2歳だったので何も覚えていませんが、母が亡くなる間際まで何度も話していました。

 小松島市に住んでいて空襲で焼け出された両親は、兄と私、妹を乳母車に乗せ、勝浦の母の実家まで一晩以上歩き続けたそうです。農家の納屋の2階で6歳頃まで住ませてもらっていました。

 田舎での生活は苦労続きでした。食糧がなく、母の母乳が出ず、年子の私と妹は十分に栄養が取れず、やせ細っていたようです。勝浦を後にする頃になった辺りのことは、わずかに覚えています。毎日、山へ登り、たき木用の枯れ枝や松葉を集めました。お弁当は麦ご飯、おかずは梅干しや味噌だけでした。お茶は、地生えしている茶の葉や茎を折り、やかんで沸かした中に入れて飲みました。沸きたてのお茶は、とてもきれいな色と香りでした。

 7歳になり、小松島市に戻りました。父は戦時中に徳島市内でしていた商売を再開しました。小松島に戻ってからのことは、はっきりと覚えています。今と違って、とても不自由な生活でした。住居は何軒も続く長屋でした。トタン屋根で、隣とは壁一枚でした。水は近所との共同井戸だったので、雨天時のお米洗いや洗濯物は特に大変でした。たらいに水を張り洗濯板で擦り洗いをしました。脱水機がないので、固く絞れず、大きなものは何日も干していました。

 食事では、朝食は麦ご飯と味噌汁、夕食はそれに、ちりめんやめざしが加わりました。真っ白なご飯を一度で良いから、お腹いっぱい食べたいというのが私の夢でした。履き物は下駄でした。鼻緒が切れたり、雪の日は雪が詰まったりしながら歩いて行きました。毎日の生活において、語り尽くせないほどのことがあります。

 不自由な生活の中にも、井戸端で近所の人と話をしたり家族そろって夕食を食べたりしたことなど、良い思い出もたくさんあります。人間関係が希薄になり物騒なことも起こる中、昔の生活が良かったかな、と思う今日この頃です。