「戦時下の暮らし 記憶のかけらを集めて」は、全国の地方新聞やNHK、ウエブメディア計12社によるキャンペーン「#あちこちのすずさん」との連携企画。7月に投稿を呼び掛け、集まったエピソードを紹介する。

 

徳島県阿波市阿波町・徳美(57)

 私の母は1937年2月に徳島市で生まれました。両親と14歳上の姉との家族でした。父親(祖父)が、薬剤師をしていたので、家族で徳島市住吉に暮らしていたようです。空襲警報もよく鳴ったらしい。

 14歳上の姉は、当時としては珍しい職業婦人でした。なんと、徳島県初の3人の女性アナウンサーの1人で、NHKラジオ局に勤めていたそうです。

 平凡な徳島市での生活が変わりました。45年7月4日の徳島大空襲で家が全焼したのでした。母は8歳、徳島大学付属の国民学校3年生でしたが、防空壕へ逃げる間もなく家に爆弾が落ちたそうです。当時の例に漏れず、竹やり訓練、バケツリレーの消火訓練も学校ではあったようです。

 父は、貞光町(現つるぎ町貞光)マチに3人兄弟の真ん中として、27年3月に生まれました。今から4年前に87歳で世を去りました。

 旧制の池田中学(現池田高校)に入った年に太平洋戦争が始まりました。父は歴史で天皇の神話を教えられるのが嫌だったと言っていました。父の家も父親(祖父)が米屋をしていたので、他の家より食糧はありましたが、祖父に「ぜいたくしてると思われては」と子供たちには麦飯ばかり食べるようにと言われ育てられたらしいです。

 父は中学(今でいう高校1年)の頃に、学徒動員で名古屋市に行っていました。帰った後には、徳島工業専門学校(徳島工業短期大学)に通い、戦後、工場もないから、46年、19歳から教師になりました。

 敗戦の7カ月前、工業専門学生の頃、実家にいた冬に、大阪から疎開していた16人が焼死してしまう真光寺の大火事を目撃しているようです。

 今は、血縁で戦時中の経験を聞けるのは母だけになりました。私や弟に子供がいないので、直接子孫に伝えられませんが、私は子供たちに本読みしたり、話したりの機会も多いし、自分より30歳以上若い人たちとの交流もあります。次世代の子供たちに、両親の経験などを含めて平和を、戦争の残酷さを、語り継いでいきたいと思います。