「戦時下の暮らし 記憶のかけらを集めて」は、全国の地方新聞やNHK、ウエブメディア計12社によるキャンペーン「#あちこちのすずさん」との連携企画。7月に投稿を呼び掛け、集まったエピソードを紹介する。

 

徳島市津田西町・柳澤信子(79)

 生前の母が、幾度となく言っていた言葉がある。

 「信ちゃんのおかげで、夜は安心して寝ることができた。空襲警報が出ても、必ず信ちゃんが起こしてくれた」

 私はサイレンの音でいつも目が覚めた。昼間の仕事で疲れ切って寝ている母を揺り起こし、防空頭巾をかぶって母子3人で町の共同防空壕へ逃げ込み、まんじりともせず一夜を過ごす。その繰り返しだった。

 私は「信子(のぶこ)」。当時の売れっ子作家「吉屋信子」から名前をもらったとか。生まれは神戸の須磨だったが、父が広島県呉の軍需工場で働いていたので父、母、弟、私の一家4人はその社宅で住んでいた。

 同じ色、同じ形。数えきれないほどの社宅が並んでいた。両親が「信ちゃんは、どこに行っても間違わずに家に帰ってきた。同じ家なのによく分かるもんだ」と褒めてくれたのをよく覚えている。

 褒められた思い出とは別に、目に焼き付いて離れないのは「あの広島への原爆投下」である。

 私は、母と呉の社宅から少し歩いた小高い山の中腹にある知人の家へ行く途中だった。

 なにか地面が揺れたように感じた。

 向こう側の山の稜線に、少しピンクがかった雲が立ちのぼり、やがてどす黒く広がった。あの恐ろしい原爆とは知る由もなく、本当の怖さなど分からなかったが、脳裏に焼き付いている。

 その時は、庭を走り回っていた、とさかの真っ赤な鶏(雄鶏)に追いかけられたことの方が怖かった。

 やがて終戦となり、私も満4歳になったばかり。父の故郷・徳島県麻植郡の川田へ引き揚げてきた。呉の港から四国の今治港までの船中、真っ暗な船底で母、弟、私の3人は、周囲がどうなっているのかまったく分からないまま震えていた。私は、積み荷の間に挟まった手の指が痛くて痛くてたまらず、泣き通していたように思う。

 父は船の甲板で仲間とともに、船が沈まないように荒れている海へ積んでいた荷物を次から次へと放り投げていたと後から聞いた。

 助かった命は、少々の荷物とともに、何とか川田に着いた。やがて祖父母の家が神山(当時は上分)にあったため、親子4人で向かった。村境の峠(経の坂)を歩いて越えた。4歳になったばかりなのによく歩いたものだと思う。わら草履が破れて足が痛かった。

 母は弟を背負い、両手に荷物を持っていた。泣きながら歩く私に「おばあちゃんの家に着いたら、ゆで卵と、なんば(トウモロコシ)があるよ」と何度も励ましてくれた。

 祖父母の家に着くと、言っていた通り、ゆで卵となんばがあった。今でこそ連絡はすぐ取れるが、何の通信手段もない当時、ゆで卵となんばがあることが、なぜ分かったのだろうか、いまだに不思議でたまらない。後日、引き揚げ荷物のタンスなどが神山に届いたことも、不思議でたまらない。母は、届いたタンスを毎日磨いていた。

 今でも「呉」という言葉や文字には、すぐに体全体が反応してしまう。やがて、天国か地獄のどちらかはわからないが「お迎え」が来るまでに一度、呉に夫と一緒に行ってみたい! そして手にしたことのない「吉屋信子」の本を、ゆっくり読んでみたい。