「戦時下の暮らし 記憶のかけらを集めて」は、全国の地方新聞やNHK、ウエブメディア計12社によるキャンペーン「#あちこちのすずさん」との連携企画。7月に投稿を呼び掛け、集まったエピソードを紹介する。

 

徳島市国府町・庄田哲芳(84)

 4歳から11歳まで大連で暮らしていた。ほとんどが日本人という街で100万人がいた。

 父が教員だった。貞光や富岡の小学校の先生を経て大連へ渡った。大連は給料が3倍だったという。15くらいの小学校があった。祖父と父母、私の4人暮らし。日本に戻るときには生まれたばかりの妹がいた。暑くなったと思ったら、じきに涼しくなる。冬休みが長かった。

 遠足は星ケ浦海水浴場に行ったことを覚えている。日本人が桜を植えた公園にも行った。

 市電が走っていて、日本人は緑の車体、中国人は赤の車体に乗るという決まりがあった。緑が10台来るうちに、赤は1台しか来ない。それに赤の車内は汚かった。明らかに差別をしていた。

 終戦の年は10歳。4月、学校に行ったら教科書ももらえず、先生が海野十三(徳島市出身)の作品を読み聞かせてくれた。面白くて、おかげで本好きになった。次第にコーリャンの飯も食えなくなって、穀物のふすまを粉にしてパンのようにして食べるようになった。

 貯金をしていたので国債を買えと言われ、父が満州国発行の国債を購入した。負けたとたん無価値となり、どうしようもなく、今も持っている。

 終戦の翌年、1946年12月になって、やっと日本に戻ることができた。家族全員が戻れたが、その道中は大変だった。港までは、立ったままトラックの荷台に乗らされ、しゃがむこともできなかった。振り落とされないよう必死に踏ん張った。

 引き揚げ船の中では、夜中にトイレに立ったとき、船員が餓死した子どもを布に包んで海に流していたのを見た。日本に着いたら、原っぱのような所でDDT(殺虫剤)を浴びせられた。

 戦争は軍隊だけがするのではない。最も弱るのは、弱者でもある国民だ。絶対したらあかん。自分たちで造った防空壕の中で膝をつき合わせ、爆撃機が通過するのを待っていた当時を思うと、今の新型コロナウイルス対策としての自粛生活など楽なものだと思う。