「戦時下の暮らし 記憶のかけらを集めて」は、全国の地方新聞やNHK、ウエブメディア計12社によるキャンペーン「#あちこちのすずさん」との連携企画。7月に投稿を呼び掛け、集まったエピソードを紹介する。

 

徳島県つるぎ町半田・大久保恭子(91)

 終戦の年は三好高等女学校(高女)の4年生の時だった。学徒動員で地元池田町(現三好市)の工場で、木製飛行機の部品を造っていた。私は事務をしていた。働いたのは1920年3~7月の5カ月だけ。7月には部品の材料が底をつき、仕事がなくなった。その後は山を開墾し、ソバをまいた。暑くて1週間しか続けられなかった。

 勉強は好きで、問題集をしては、京都大に通っていた兄に送って見てもらった。高女卒業後は、京都府立女子専門学校(現京都府立大)被服科に進学した。

 毎日の学生生活は楽しかった。高女時代は友達3、4人で写真館に行き、制服姿で写真を撮ってもらったこともある。1級上の人たちは学徒動員先が兵庫県明石の軍需工場だったので、寮での生活や食糧不足が大変だったと思う。私たちは家でおれるだけでもよかった。

 箸蔵山には遠足や祭りで年に何回も行った。ケーブルカーがもともとはあったのに、戦争で供出することになって戦中は歩いて登った。だから、今でも「足は達者」と友達と言い合う。

 住んでいたのは池田町の東中通り。家は刻みたばこを作っていたが専売制となった後、酒造りを始めた。今小町の銘柄を今も造り続けている。戦中、戦後はでっちがいないので、私もよく働いた。瓶を洗ったり、ラベルを貼ったり。寒い蔵で頑張ったから、学校も行かせてくれた。

 池田の方は街と比べ、のんびりしていて、徳島が空襲を受けてから防空壕を掘った。防空壕は二つ掘り、一つは人間が入るため。もう一つは、からつもん(唐津物、食器)を箱に入れて埋めた。

 よそゆきの衣類は井内(現三好市井川町)と箸蔵に疎開させていた。小学6年生の時に衣類が切符制になった。切符と交換して生活必需品の配給を受ける制度で、制度が切り替わる前に、女の子がいる家は着物などの嫁入り道具を買いに走り、大事に取っておいた。鏡台も疎開させた。どこに何を疎開させたか分からなくなったらいけないので、メモを書いて家族で共有していた。

 毎晩のように空襲警報が鳴るので、もんぺと上っ張りを着替えず、そのまま寝ていた。空襲時に火事が広がらないよう、道を広げるため店は壊された。

 結局、池田に空襲はなかった。徳島など街の劇場は焼けてしまったので、戦後、お芝居で有名な人がしょっちゅう池田に来るようになったことを覚えている。