「戦時下の暮らし 記憶のかけらを集めて」は、全国の地方新聞やNHK、ウエブメディア計12社によるキャンペーン「#あちこちのすずさん」との連携企画。7月に投稿を呼び掛け、集まったエピソードを紹介する。

 

徳島市上八万町・野村忠昭(76)

 「お願いじゃからこの子に毛布を貸して」。切羽詰まった表情で私に迫るのは、近所の方らしい奥さん。「余分がないから貸すことはできんのよ」と拒む私。同じやり取りを何度か繰り返している。

 1945年の春の宵の口。私の暮らす田舎の集落にも米軍機が飛来し、空襲警報が発令された。家の近くに防空壕はなく、やむなく私は近所の小高い丘の中腹にある墓地に逃げ込んだ。1歳になったばかりの子を背負って。囲いのある墓を選び、その影に身を隠した。持ってきた1枚きりの毛布は小さく、私の肩ははみ出ても、子どもは保護できる。そこに同じく、幼児を背負った奥さんが逃げ込んできたのだ。慌てて身を保護するための毛布を忘れたのだろう。

 焼夷弾の赤い光が少しずつ近づいてきて、2人の幼児は激しく泣き出した。「子どもを守るのが先だ」。私は心に決め、毛布から出た。2人の子どもを毛布でぐるぐる巻きにし、墓の影に隠した。幸い、米軍機は頭上を通過したが、焼夷弾は落とさなかった。

 数週間後、わが家の食糧が尽き、空腹を抱えて実家に向かう途中、近くの家から女性が出てきた。手にはおにぎり三つを入れた皿。「先日はありがとう。これはお礼のつもりよ」と私に皿を差し出した。私は奥さんの家の縁側を借り、遠慮なくおにぎりをいただいた。出されたお茶を飲みながら。

 夫は戦地におり、不安な日々を送っていた私。親切に触れ、うれし涙を流しながら、その涙で塩味になったおにぎりを頬張った。

 以上は、母が幾度となく私に語った実話だ。当時1歳で毛布にくるまれた私は、いつのまにか76歳に。26歳だった母は74歳で鬼籍に入ったが、「私は運が良かった」が口癖だった。私から見ると、それほど恵まれた人生だったようには思えなかったが・・・。