「戦時下の暮らし 記憶のかけらを集めて」は、全国の地方新聞やNHK、ウエブメディア計12社によるキャンペーン「#あちこちのすずさん」との連携企画。7月に投稿を呼び掛け、集まったエピソードを紹介する。

 

徳島市八万町・田中正代(75)

 母は11歳、9歳、6歳、4歳、1歳の5人の娘を連れて満州より引き揚げた。父は終戦の3カ月余り前、「こんな小さな子どもたちを置いて・・・」と絶句した後、出征した。

 終戦後、すし詰めの列車に乗って港に向かう。ある朝、荷物を踏み台にして尿をしていた男の子が落ちた。列車は止まらない。みんなただ、その子を見ていた。ある駅で降りて歩く。人買いが寄って来る。日本人の女の子は高く売れるそうだ。母は子を死守。上の子たちの頭は丸刈りにして顔を汚し、男の子の服を着せていた。道すがら、石や腐ったものを投げつけられる。市場を通ると籠の中にサル、鳥、犬。日本人の子どもまで売られていた。

 収容所で1年余り、ひたすら引き揚げ船を待った。船が出る知らせにみんな泣き出す。乗れるのかというほどの大勢が乗船する。子どもたちもたくさんいて、あちこちでぐずり、泣く。「うるさい」「黙らせろ」。みな疲れと不安の中、イライラが募る。日本に着いた頃には、子どもは数えられるほどになっていた。

 母の実家は徳島大空襲でも焼けず、残っていた。子どもたちは親類や知人宅へ預けられた。母のつらさはどれほどだったか。

 母は毎日、新聞の引き揚げ者名簿を目を皿にして読み、父の名を探した。戦死の知らせが届く。英霊を迎えに徳島県庁へ5人の娘と行く。県知事の原菊太郎さんは、母の肩に手を置き、「おまはん、5人もの子どもを無事によう連れて帰ったなあ、ご苦労だったなあ」。母は涙ぐみもせず、「はい、今日はありがとうございました」。私は、母の涙を見たことがない。

 ある日、散り散りになった子どもたちを集め父の墓に参り、徳島駅前の食事どころでみんなでオムライスを食べた。夕方に海へ。暗くなるまで子を遊ばせ、長女に「ここでみんなで死のう。死んだらもう、こんなつらい思いはせんでええ」。「お母さん、死んだらあかん。帰ろう」と長女。もう一度、あった。今度は吉野川で。

 母は90歳まで生きた。今は海を見下ろす墓で父と一緒に眠る。だが、その父の遺骨は満州荒野の石ころひとつ。