「〈フーコ、今日は何してた?〉」
イギリスで暮らすゾーイさんとのオンライン英会話の始まりはいつもこの問いかけ。代わり映えのしない日常を送る私は、毎回言葉を詰まらせる。
「〈朝は家で勉強して、午後は近所のスーパーで買物。さっきまで店の手伝いしてた〉」
「〈お盆はゾメキが流れてるスーパーね。条件反射で子供が踊る姿、何度も見たよ〉」
ラベンダー色の眼鏡に栗色の髪を束ねたゾーイさんが、肘を上げ阿波踊りのポーズをすると、左手首に腕時計が2本見えた。2つの土地の時間の中で彼女は今も生きている。
「〈その青い方の時計、初めて見た。どこで買ったの? インディゴブルーがいいね〉」
「〈覚えてない。箱に入れたままだったから変な匂いがするけど、無いよりはいい。ところで、この前『三角ベーカリー』の前を通ったらシャッターが閉ってたんだけど……〉」
「〈ショッピングモールに移転した。ついに、ご近所のパン屋さんが一軒も無くなった〉」
「〈あの店はライ麦パンが美味しかった。そごうで買った生ハムをのせてよく食べたよ〉」
イギリスに帰国して1年半。ゾーイさんは「ストリートビュー」の画面越しに、今もこの街を見守っている。お母さんのマーガレットさんが寝間着姿で部屋に現れた。
「ごめん。マムが起きたから日本語で話す。キッチンに移動するから、待ってな」
カメラが室内を映していく。洗濯ロープに掛かったタオル、部屋の隅に置かれた、檻。
「おお! フーコの顔、メチャ近づいた。これのこと? お隣のガレージにあったのをもらった。ここに置いて見てるだけ。あの時のこと、迷惑かけたこと忘れたくない」
「迷惑かけた? ゾーイさんは被害者やろ。それとも他になにかある?」
「ナイヨ。ママの目が悪くなってきて、世話で頭がいっぱい。けど、徳島忘れたくない」
身体を曲げて檻に入るマーガレットさんをゾーイさんが手助けし、鍵をかけた。
「そんな目で見ないで。買物は連れていけないから仕方ない。ここは自転車でほとんどの用事がすむ徳島の街と違う。スーパーまでバスで一時間。その間に何かあったら困る。カーペットも敷いてるし、居心地悪くないよ。フーコもシェルターにいたからわかるやろ」
「シェルターと檻は全然違う。とにかくお母さんをそんなとこに閉じ込めたらあかん」
マーガレットさんは頬の肉が網目に食い込むほどぐったりと檻に寄りかかり、ゾーイさんからの質問にも、目を閉じたまま頭を左右に振るだけだった。
「ほな行ってくるわ。フーコ、また来週。こっちの空は今日も灰色。徳島の空が恋しい」
「シェルター」とは私が中学生の時通っていた特別支援学級のことで、運動場に面したガラス窓は高い垣根で囲まれ、教室は外から見えないようになっていた。中学に入学した頃から同級生たちの視線や声色が変わり、その原因が自分の言動にあると気づいてからは、透明な囲いの中で身を縮めて過ごした。ここに通いだして、緊張が和らぐ時も増えたけれど、過去の自分の滑稽な姿が時折蘇ってきては、消えてしまいたい気持ちになった。
「先生、マイナス1を鉛筆マイナス1本に、マイナス3は鉛筆マイナス3本に置きかえて計算しようとしたんですが、無いもんは無いから想像できないんです」
「ん? ただの計算問題や。置き換えんでいいぞ。テスト、あと15分」
「けど、マイナスの数は無いから計算できません」
「西田がうるさいけん集中できませーん」誰かの言葉に笑いが起った。
「笑うな。西田、北海道の気温はマイナス2度じゃ。マイナス、あるでないか」
「けど、零度は人間が勝手にこしらえたって母が言ってました。華氏で考えたら……」
舌打ちがして顔を上げると、自分の髪をぐしゃぐしゃにした先生が言った。
「女のくせして、がいなこと言うな」みじめにうなだれた私の姿は、教室中の視線に晒された。ざらざらとした床を足でこすりながら、先生の影を踏みつぶしたいと思った。
背筋がぶるっとして「ふぁっ!」と叫ぶと、ノリちゃんが「きゃっ」と声を上げ、正気に戻った。一学年下のノリちゃんと大石くんは静かに紙を切ったり、ちぎったりしている。私も気を取り直して英語のテストに集中した。チャイムが鳴ると運動場で遊ぶ生徒の歓声が教室に押し寄せ、落ち着かなかった。やむをえず、眉山に住む恐ろしい山姥が運動場に飛び込んできて、生徒たちを一気に恐怖の渦に巻きこむ、という空想にふけった。
ゾーイさんに初めて会ったのは秋田町にある母のおでん屋で、中学生活も残り僅かになった頃だった。先月からよく来るようになった田中さんの「連れ」としてやってきた。田中さんは気前よく他人の分まで払ったりする人で「よそから来たセレブ」と皆からは噂されていた。その夜、割烹着姿の母はカウンターの中で柿ピーをつまみ、私は牛すじカレーを食べながら、常連のサヨさんの話を聞いていた。母は麦茶ポットに入れたウィスキーの水割りを冷蔵庫から出し、自分のコップになみなみと注いだ。
「いや、それほんまに? 今どき嫁だけおかずが一品少ないなんて聞いたことないで」
「それも刺身じょ。私『えーっ!』て叫んだわよ。食事だけを楽しみに旦那側の法事に出たのに、男の人とは座る場所も違うんじょ。いつの時代? ブリの刺身食べたかったわ」
サヨさんのため息と同時に戸が開き、冷気と共に店にいい匂いが入ってきた。顔を上げると白いジーンズに包まれた長い足。遥か遠くには細長い楕円の鼻の穴が見えた。
「ダンサーのゾーイ。イギリス人。これから、ちょくちょく一緒に来ますけん」
「田中はん、ごついで。わしもこんな金髪美女連れて、紺屋町歩いてみたいなあ」
常連さんが自分たちのテーブルに二人を引き入れた。
「ほんで、このベッピンさんは、なんでこんなとこに住んどんかいな?」
「徳島の人、皆同じこと訊くね。こんないい所ないよ。便利やし、人も良いし」
店中が湧き立った。便利でやないでえ。けど、人は確かに良いな。「こいつがパリの舞台で踊ってた頃の姿、見たって」田中さんは写真をお客さんに渡した。ありゃ、これはすごい。「風子、せっかくやし、得意の英語試したら?」「え!」母がゾーイさんを連れてきた。「ヘロー、マイネーム、イッズ、フウコ」「ヘロー、フーコ」「プリーズ、イート、ハンドメイドカリー」「センキュー。英語とても上手」と親指でグッドサインを作ってくれた。サヨさんが「芸術や」と渡してきた写真には、上半身裸で真っ赤な羽を背負いポーズをとる姿と、スカートをたくし上げ他の踊り子たちと一緒に足を上げる姿が写っていた。
「フレンチカンカンや。チャンチャーンチャカチャカ♪」「こっちでは運動会の音楽ね」顔を見合わせ笑っていると田中さんが「この人と結婚します。皆さんよろしゅっ」とゾーイさんに抱きついた。その拍子にストールが落ち、首に傷が見えた。よく見ると頬にも網目みたいな傷がある。「ここ、どうしたんですか?」と聞いた瞬間、田中さんの顔色が変わり「得意の英語で聞けだ、んあ?」とあごを突き出した。私もあごを高く上げる。「ホワット、イズ、ディス? ホワット、ハップン?」拍手が湧いた。すると田中さんの顔はみるみる赤くなり「ひまわり学級に通とるやつが、偉そうに英語や喋るな」と側にあった椅子を放り投げてきた。母の悲鳴。「何するん。いけるか。腕に当たったんやな。後でみてあげる。部屋に上がっとき。ちょっとあんた、子ども相手に恥ずかしいないんか」逃げるように店を出ていく田中さんを追って、ゾーイさんも慌てて外に飛び出していった。
店の上の部屋は30年以上祖母が一人で暮らしてきた。その祖母が店で倒れたのは2年前。当時小松島に住んでいた私たちは、数週間ここで寝泊まりしながら祖母を看取り、その後も家には戻らなかった。そして、祖母が毎日使っていた櫛や椿油も、祖母によく似合った格子柄の着物も、箪笥や仏壇、鏡台も、布を割いて作ったハタキや千代紙を綺麗に貼ったマッチ箱や菓子箱も、大きめの具材を甘く炊いた飴色のおでんも、全て受け継いだ。
「起きた? 痛みは?」店を終えた母は、いつの間にか傍らで見守ってくれていた。
「うん、大丈夫。けど、お父さんが怒った時の顔、思い出してしもた」
「そうやな。こらえのない人って、なんで皆『おんどりゃあ』みたいな顔するんやろな。お母さんも目に焼き付いてるわ。婆ちゃんが倒れたって聞いて、仕事も、風子の学校も、家も全部放りだしてこっちに来たけど、それで良かった。不謹慎やけど、あの晩、死にかけの親が横にいるのに、今夜はあの顔に怯えんでいいと思ったら、力が抜けて久しぶりに熟睡できた。そしたらもう戻る気力が無くなってしまって……、離婚してごめんよ」
「なんで謝るん? 私は何があってもお母さんについていくだけじゃ。転校して学校に居場所ができて嬉しい。英語の勉強ができるようになったんも嬉しいんじゃ」
「なんでほんなこと言うてくれるん……。風子のそういうとこ、当たり前と思ってない。ほんまに特別、有り難いと思ってる」
10日後、田中さんが逮捕された。事件の詳細が載った新聞を母が読んだ。「徳島県阿南市在住、不動産会社役員の田中裕也容疑者55歳は、徳島市秋田町にあるマンションの一室に徳島市内で知り合った40代のイギリス人女性を動物用の檻に監禁、軽傷を負わせた疑い」「えっ!」「自宅に戻らない田中容疑者を捜していた妻が、女性と容疑者を発見し警察に通報。その後、容疑者の妻はベランダから飛び降り自殺を図り、重傷を負った。田中容疑者は過去にも外国人女性へのストーカー行為で逮捕歴があり他に余罪がないか調査中、やって」「なんで檻に入れるん? 結婚するって言ってたのに」「なんでかな。ゾーイさん、家にもう戻ってるかも。様子見に行ってみよか」「けど、どこのマンションか……」母はカーテンを開けた。「向かいのマンション。昨日風子が学校に行ってる間、パトカーと救急車が来て騒ぎになってた。3階のあそこのベランダ見て。干した洗濯物の中にこの前履いてた白いジーンズがある。あんな長くて細いのん、徳島で履けるのゾーイさんくらいや」
部屋は施錠されていなかった。ドアを開けると、ベランダから冷たい風が一気に通り抜け、カーテンが音を立ててはためいた。殺風景なワンルームの片隅には檻があり、その中には首輪と手錠、そしてダンゴ虫のように小さく丸まったゾーイさんがいた。母は窓を閉め、暖房をつけた。「風子、毛布。それとおでんを保温ジャーに入れて持ってきてあげて」押入れから毛布を引っ張りだし母に渡した。と、何かが引っ掛かってもう一度押入れを開けた。よくある透明衣装ケース。けれど、その中にはゾーイさん一人が持つには多すぎる財布や携帯電話、ライターや腕時計、そして千代紙が貼られたマッチまで入っていた。よくわからないまま部屋を出て、店に向かいながら祖母の言葉を思い出した。
「ご近所の綺麗な外人さんに英語教えてもらうんじょ。ふうちゃんも学校が嫌やったら、無理して行くことないけど、来年か再来年、婆ちゃんと外国旅行できるように英語の勉強しときよ。その人からいろんなよその国の話聞いてたら、うずうずしてきて、学校ような小さい世界で堪えてるふうちゃんにも、広い世界を見せてあげたいなあって思ったんよ」
あの時、祖母が話していた外人さんは、ゾーイさんのことだったのだろう。その後、分厚い英語のテキストと一緒に送られてきた地球儀には、祖母が行きたい国がマークしてあり、暗くするとそこだけが仄かに光った。間もなく祖母は腎臓を患い、週に3回の人工透析が必要になった。海外旅行の夢はあっけなく消えてしまったけれど、私はその後も英語の勉強を続けた。祖母の一周忌が過ぎた頃、母が呟いた。「キミさんは、ほんまについてない人やった。『籠屋小町』なんて呼ばれるほどの人やったのに、後妻に来て、この店をお父さんに押し付けられて、それからずーっとカウンターの中。結局ここで死んでしまった」
その時、祖母が私たちとは血の繋がりのない女性だということを初めて知った。
午後七時、いつものようにゾーイさんとのレッスンが始まった。
「〈今日は何してた?〉」
「〈高卒認定試験の勉強。私、大学受験することにした。これからのことずっと悩んでたけど、決心したら道が開いて、お婆ちゃんが言ってた『広い世界』まで頑張ったらいけるかもしれないと思った。私のお婆ちゃん、覚えてる?〉」ゾーイさんの目が微かに震えた。
「〈もちろん。フーコが英語を熱心に勉強してるっていつも自慢してた。だから、お店であなたが英語で話しかけてくれた時は嬉しかった。キミさん、親切で優しい人だった〉」
「〈じゃあ、どうして高額なテキストを売ったり、モノを盗ったりしたの? あなたが変な匂いがするって言ったその腕時計、中学の時にお婆ちゃんが私のために買ってくれたものなの。私の肌が弱いから天然の藍で染めたベルトの時計を特注までしたのに、渡す前に失くしてしまったって、お婆ちゃんずっと沈んでた。お願い、私にその時計返して〉」
じっと耳を傾けるマーガレットさんの姿が目に入ったけれど、私は英語で喋り続けた。
「〈あと、田中さんの奥さんからゾーイさんに伝えてほしいって手紙がきてた。『私は車イスの生活ですが、主人との日常を取り戻そうとしています。どうか手紙は送らないで下さい。檻に入ったあなたの写真を見て困惑しました。主人は病気です。再発するので写真も送らないで下さい。お母様が亡くなられて心細いとは思いますが、徳島に戻って主人と結婚したいと言われても応えられません』〉」ゾーイさんは甲高く笑った後、笑顔で言った。
「〈私は盗ってない。信じて。時計はすぐ返す。おっ! 痛いマム、もう盗ってないよ〉」
お母さんを無理やり檻に押し込もうとするゾーイさんを、マーガレットさんが杖で叩き始めた。二人の悲鳴と罵り合う声を聴きながら、私は静かにパソコンを閉じた。(了)
なかむら・あゆみ 1973年徳島市生まれ。近畿大文芸学部卒。ラジオリポーター、ケーブルテレビのアナウンサーを経て、フリーアナウンサーとして独立。現在は主婦の傍ら、イベントでの司会や朗読などをしている。第15回とくしま文学賞随筆部門最優秀賞。徳島文学協会会員。大学生と小学生の2児の母。徳島市山城西在住。47歳。