徳島のつるぎ町にある「吉良のエドヒガン」という立派な桜をご存知でしょうか。樹齢約400年、徳島県内でも最大級の大きさで樹高は20メートルほど、非常に立派な巨木で、県の天然記念物にも指定されているようです。
 去年、私はこの桜を見につるぎ町まで行きました。車の免許を持ってないのにって、勿論ひとりで行った訳ではありません。大住さんに運転してもらって行きました。あなたはもう大住さんの名前など聞きたくないかもしれませんが、今ばかりは許してください。なぜなら(という接続詞が適切でなければすみません)大住さんは今下半身不随で、寝たきりの生活を送っています。大住さんの妹が主に彼の世話をしていて、それ以外は妹さんの頼んだヘルパーさんが来ています。
 エドヒガンを見に行った時には、大住さんはまだ元気でした。四十にしては若々しく、水気のある穏やかさと、成熟した男のひとの感じを兼ね備えていました。一級建築士の彼の唯一の趣味が乗馬でした。月に二度、彼は徳島から車で橋を越えて県外の乗馬クラブに通っていたのでしたが、去年の末、凍てつくような冬の日でした、彼は落馬しました。骨折だけで済めばよかったのですが、運悪く脊椎を損傷し、そのまま下半身が動かなくなりました。彼の妹から私に電話があった時には、思わず青ざめました。鳴門の病院へ駆けつけ、命に別状はないと分かったものの、しかしその時の彼の顔からは、何というか、もう、生きる気力のようなものがごそっと無くなっていました。その時すでに、下半身はもう動かないだろう、と医者から宣告されていたようです。
 そろそろ籍を入れようか、と相談していた矢先のことでした。その話はどちらからともなく立ち消えました。つい一か月ほど前まではそれでも、季節の花なんか持って、度々大住さんの家を訪ねていたのですが、私が顔を出しても、彼はもうほとんど口を開かなくなってしまい、薄情な私はもう、彼に会いに行かなくなりました。
 大住さんに会わなくなってまだ一か月と少ししか経たないのに、私はもう、彼の顔をうまく思い出せません。どんな瞳で私を見つめ、どんな風に眉を曲げ、どんな風に唇の間に食べ物を差し込んでいたのか、よく思い出せません。思い出すのはなぜだか、去年の春に大住さんと見た「吉良のエドヒガン」のことばかりです。ふとした瞬間に、あの桜のすっくと立った巨大な幹、風にゆられてざわつく花びらの群れが、脳裏に映し出されます。

 大住さんはそうして、一か月やそこらで桜の思い出に取って代わられてしまったのに、あなたとのことは、恥ずかしながら今でもよく覚えています。特に最近、高校時代を思い返すことが増えました。うだるような暑さの日は汗を吸ったシャツの襟をパタパタとさせながら、凍えるように寒い日にはグレーのマフラーに顔を埋めて、あなたは徳島駅前で私を待っていました。それから一緒にうどん屋に入ったり、路線バスに乗って映画を見に行ったり、あてどもなく汽車に乗ったりしたものです。思えばあの頃が一番楽しくって、結局あの頃を境にゆっくりゆっくりと、私は坂を下り続けているような気がします。
 そして、あなたが東京の大学に進学してからのことも、それはそれで良い思い出です。徳島駅前から乗って、東京の浜松町に着くあの夜行バスは、着くのに八時間はかかりますけど、苦ではありませんでした。早朝の浜松町バスターミナルに迎えに来るあなたは、会う度背格好がどんどん都会の人のようになっていって、だから私は少し不安で、その不安をかき消すように、絵ばかり描いていました。夢を追ったあなたと対照的に、絵の学校へ行かなかった自分に嫌気も差していました。

 高校二年であなたと会ってそれから、お互い大学を出て、働き始めるまで七年間、私はあなたと時間を共有し続けていたようなもので、そのため去年一年間は、それがぷっつりと止まってしまって、何と言ったらよいか、まるで空白のようながらんとした年でした。だからこの手紙を書いた一番の目的としては、その去年一年に起こったことを色々と書いて、あなたと共有したいと思った訳ですけれど、今思えばそれは随分勝手なことだ、と自己嫌悪に陥っています。そしてついさっきまで書こう書こうと思っていた去年一年のことが、どうにもやっぱりうまく頭の中でまとまりません。
 なのでもうそれはよいとして、私の母も祖母も相変わらず元気で、喫茶店もそれなりに、常連のお客さんで賑わっています。二人は、今までほったらかしにしていた喫茶店の裏の畑を精出して耕し始め、そこで野菜を育てて、芋とかトマトとか、キュウリとか人参とか、結構美味しいんです。徳島の肥沃な土地はやはり、野菜がのびのび育ちます。そして夜が更けてくると、私はよく閉店後の店のキッチンを借りて、野菜のクッキーを作っています。何のことはない、ホットケーキミックスにバターと卵と牛乳を入れて、そこにすりおろした人参なんかを入れるだけです。ちょっとぼそぼそした、素人のクッキー。でも夜にそうやって、誰も居ないキッチンでぼそぼそのクッキーを作るのは、たいへん心地がいいんです。その日に生み出されたちょっとした澱みが、なくなっていくような感じです。
 あなたは知っていると思いますが、私は私の祖母や母、そしてその他多くの人のように、誰かのために料理をする習慣を持ちません。むしろ、今から私が調理するこれが誰かの喉元を通っていくのだと思うと、おぞましいような感じがします。優しい大住さんは、そんな私の特性には理解を示さず、否定したり怒ったりすることこそありませんでしたが、いつも笑顔で「君の作る料理は美味しいよ」とひたすらに褒めるのでした。それが故大住さんに料理を振る舞った日の夜には、彼がすっかり眠ってしまったことを確認してのち、トイレの便器に顔を突き合わせるようなことも何度かありました。だから今、深い夜の時間に自分だけのために作る味気のないクッキーは、私にとって至福の食べ物なのです。
 そして母も祖母も、私がのらりくらりとクッキーを作ったり絵を描いたりして暮らしていることを、容認してくれています。二人は私の幼い頃からそうでした。すぐに身体の調子を崩す私に、無理を強いるようなことは一切ありませんでした。私に気を遣っているのか、あなたの名前もめっきり出さなくなりましたし、最近は大住さんと私のことについても全く触れません。今度こそ私が結婚するものと二人は思っていたでしょうが、毎度期待に応えることのできぬふつつかな娘です。
 私は時間のある時には大抵イラストを描いています。フリーランスの受注サイトに登録しているのですが、結構仕事が来ます。特に花の絵や女の子の絵をよく描きますが、それをどこかまるで流れ作業のようにこなしている自分が居ます。メールでイラストの値段交渉をしながら、私のちんけなプライドが虚しく独り言ちるのです、本当にやりたいのはこんなことじゃない、と。そして私は度々憑かれたように、朝方まだ日の光の白いうちに、絵筆とキャンパス、イーゼルを抱えて、家の近くのお寺まで歩いて行きます。お寺には朝早くから白衣を着たお遍路さんが参って来て、菅笠をひょいっと上げて「おはようございます」と私にも挨拶してくれます。「何を描いてらっしゃるんですか」と私の手元を覗き込む人も居ますが、「大したものでないんです」と私が返すと「へぇ、それでは」と階段を下りて行きます。そんなところで絵を描いているものだから、大抵みんな風景画だと思うんでしょう。私は風景画は大の苦手です。

 一昨年の夏、私の病気が判った日から毎日、母と祖母は二人でそのお寺へ参って、手を合わせ、祈っていました。あの病気の宣告は、私を一度鮮やかに地獄へと突き落としました。一昨年の夏に病気が判ってから手術をするまで、私の隣にはいつも死が腰かけていました。商店街を歩いても絵を描いてもあなたと電話してもちょっと高級なお肉を食べても、いつもその向こうで暗いものが私に微笑みかけていました。それでも結果、あなたもご存知のように手術はうまくいき、身体は順調に回復し、先日の定期検査でも異状なく、おそらくこの先もそう心配は要らないと直感的に思っています。しかしあの頃から乱れ始めた自律神経の余波で、今はメニエール病と診断されています。発作的にめまいや吐き気、動悸におそわれます。薬を飲んで何とかやっていますが、あのめまいの最中は、何というか、ゴッホの描いた絵の中に居るようで、初めは一体どうなってしまうのかと恐ろしかったのですが、今ではむしろ愉快な気持ちになるぐらいです。
 七年の時を過ごしたあなたと私をだめにしたのは、病気そのものというよりも、病気という事実に蝕まれた私の精神だったのでしょう。けれど実際のところは、誰が悪いという訳でもなかったと思っています。今でもテレビの中や街角で「癌」という漢字を目にすると、思わず目を逸らしてしまいます。やまいだれの中に、口が三つと山。ただそれだけなのに、じわじわと自分の身体が侵食されてしまうような、そんなおぞましい印象を受けます。「僕も、こんなのは初めてで、正直ちょっとびっくりしているんですが……」と言い淀む医者の横顔を未だくっきりと思い出せます。二十四の女性で肝臓の癌だなんて、普通は考えづらいんですがね、日本でも今まで非常に少ない症例でして……ええ、でも、今のところ、幸い転移はありませんから、切除さえすれば……
 そんな風に恋人の中に突如湧き起こった異例の事態を、きれいに真正面から受け止められる人間なんてどこにも居ないでしょう。いえ、あなたはそれでも受け止めようと足掻き、それを拒んだのは他でもない私でした。

 去年一年、大住さんは私を車に乗せて、いろんなところへ連れて行きました。夏には月見ヶ丘海浜公園に行き、秋には黒沢湿原に行き、冬には遠出はせず、大住さんの設計したお家を車窓越しに何軒も見て回りました。どの家にも大きなマイカーがあり、大抵軒先に子どもの三輪車やスコップが置いてありました。
大住さんと居ながらにして、私が浮かない顔をすると(それは大抵あなたのことを思い出しているのですが)、彼は何も言わず、自分の書いた設計図を持って来て、頼んでもいないのに説明を始めるのです。どうしてここにスペースを作ったかというと、その方が導線がスムーズだからだとか、私は設計に何の興味もないと分かっているだろうに、ただ熱心に喋り続けるのです。
 あの頃はまさか、大住さんが車の運転ができなくなるだなんて、思いもしませんでした。一番さいごに届いた妹さんからの手紙には、こんなことが書いてありました--兄は時々夜眠りながら、見えない、見えない、とうわ言を呟いて笑っているのです--それは去年の春、「吉良のエドヒガン」を見に行った時のことでした。一度だけぶわっと強い風が吹いて、私と大住さんの間を何千もの花びらが横向きに舞っていったことがありました。その鮮烈な桜色の向こうで、前が見えない、見えない、と大住さんは笑っていました。

 一週間前に、うちの喫茶店に新田先生が来ました(あなたの部の顧問だったでしょう?)。おめでとう、と私に言うので、何のことですか、とキョトンとした顔で聞き返すと、結婚したんじゃなかったのか、と言われました。先生はひどい勘違いをしていたようです。違います、と答えたそばから、目の前がぐらんぐらんと揺らぎ始め、ようやく家まで戻ってベッドに横になり、薬を飲んで一時間も寝ていれば落ち着いて、そのまま筆をとり、キャンパスにあなたの顔を描こうとして描けず、大住さんの顔を描こうとして描けず、ただ目いっぱいの大きな桜の木を描きました。ご結婚、おめでとうございます。(了)

三浦みなみさん

 みうら・みなみ 1994年吉野川市生まれ。城北高校を経て早稲田大学文化構想学部卒業。埼玉女子短期大学職員。第5回高校生のための近畿大学文芸大賞優秀作、第51回詩人会議新人賞佳作。東京都中野区在住。25歳。