友好築いた2世交流
「ベートーベンの第九の演奏会は大成功でした。特に第3楽章にほれぼれしました。何とも言えない安らぎ、慰めが流れ出てくるのです・・・」
第1次大戦中の1918年6月10日、鳴門市にあった板東俘虜収容所のドイツ兵捕虜、ヘルマン・ハーケさん(1889〜1972年)が祖国の母へと送ったはがきだ。板東で同年6月1日に第九がアジア初演された史実を裏付ける貴重な資料として、鳴門市ドイツ館に収蔵されている。
このはがきの寄贈主で長男のブルーノ・ハーケさん(85)は、ドイツ南西部のウィースバーデンで暮らす。歴史ある温泉保養地として知られ、緩やかな時間が流れる街だ。
「よく来てくれました。迷いませんでしたか?」。落ち着いた雰囲気の住宅街に着くと、ハーケさんが妻エヴァさん(82)と自宅前で出迎えてくれた。190センチ近くの大柄で、握手も力強い。
ハーケさんの父は、第九を初演した徳島オーケストラとは異なる、エンゲル・オーケストラの一員だった。収容所でバイオリンを学び、舞台に上がれるほどに上達した。
「板東時代、カイザー(天皇を指すドイツ語)の前で第九を演奏した」。父は誇らしそうに、繰り返し語っていたという。
「実は徳島の友人の協力でいろいろ調べてみたんです。残念ながら、そうした事実は確認できなかった」
埋もれた歴史があるのかどうかは分からないが、ハーケさんは「父は生涯、板東の第九に対して特別な思い入れを持っていたことは間違いない」と考えている。
ふとハーケさんの言う「徳島の友人」が気になった。尋ねてみると、板東の歴史発掘に尽力し、日独交流の懸け橋になった鳴門市の林啓介さんだった。元教員で「阿波の歴史を小説にする会」会長などを務め、2015年4月、惜しまれながら81歳で亡くなった。
他界したことを告げると、ハーケさんの動きが止まった。しばらくの沈黙の後、「そうでしたか。去年の年始までは手紙をもらっていたのですが」と視線を落とした。
商業コンサルタントとして働いていたハーケさんは1974年、父の遺志を受けて夫妻で旧鳴門市ドイツ館に足を運んだ。89年にも商用の機会を利用して鳴門を訪れ、2度とも案内役を買って出たのが林さんだった。
林さんの父豊さんは板東収容所の郵便係で、自身も板東で生まれ育った。ハーケさんは同じ「板東2世」として交流を深め、歴史の調査研究にも協力した。林さんがハーケさんの自宅を2度訪ねたこともある。
「こちらへ来てくれませんか」。ハーケさん夫妻に庭に案内された。色鮮やかな花が咲く美しい場所だった。
「9年前、林さんとここで一緒に写真を撮ったんです。徳島の新聞に載るなら、同じ場所で撮ってくれませんか」と頼まれた。
ハーケさんなりの弔いだったのだろう。そして、もう一つの願いを語った。
「彼は板東の歴史が日独友好の基盤となるよう、人生の多くの時間を費やした。その功績を、徳島の皆さんも忘れないでほしい」。