板東への愛着を語るハーケさん=ドイツ・ウィースバーデン
ばんどうの鐘=鳴門市大麻町

感謝の念日独結ぶ 

 ドイツにはフランクフルトとハンブルクの二つの都市に「バンドー会」という組織があった。第1次大戦中、鳴門市の板東俘虜収容所にいたドイツ兵捕虜たちが帰国後に結成。仲間で集まり板東時代を懐かしんだが、1992年に元捕虜の最後の生存者が他界して消滅した。

 このバンドー会を2001年に再結成したのが、ドイツ南西部のウィースバーデンで暮らすブルーノ・ハーケさん(85)。板東で捕虜だったヘルマンさん(1889〜1972年)の長男だ。

 「敵国の収容所にもかかわらず、板東では音楽、スポーツ、酪農など自由で幅広い活動が展開され、融和の精神に満ちていた。その史実を受け継いでいかなければならないという使命感があった」

 再結成は、ドイツ北部のリューネブルクで鳴門市民らが開いた「第1回第九里帰り公演」に合わせた。捕虜の子孫52人が交流会を兼ねて集まった。

 種をまいたのは全日本「第九を歌う会」連合会名誉会長で、元鳴門市長の亀井俊明さん(73)。県議時代の90年代半ば、「捕虜の子孫の居場所を知ることが鳴門市の財産になる」と何度も訪独し、新聞社や放送局を回って子孫捜しの協力を呼び掛けた。

 連絡窓口となったのが、以前から鳴門市と交流のあったハーケさんだった。「父は60年代、元捕虜の仲間と親睦会を開いて文通もしていた。そうしたさまざまな情報を基に名簿を作ったんです」

 この取り組みがあったからこそ、現在も鳴門市は三十数家族の子孫と連絡を取り合うことができている。

 ハーケさんの貢献は他にも少なくない。96年、板東収容所に統合される前の徳島俘虜収容所(徳島市万代町)の新聞「トクシマ・アンツァイガー」(16年3月12日付)を鳴門市ドイツ館に寄贈した。オークションで購入したもので、ドイツ館が全体像の研究を進めるきっかけとなった。さらに、板東収容所を舞台にした2006年の映画「バルトの楽園」のドイツ上映にも力を尽くした。

 板東に心を砕くのは、父の強い思いが影響している。第2次大戦中、オランダで暮らしていたハーケさんは大きな戦禍を免れたが、父は終戦間際に出征して英国の捕虜となった。「決して非人道的な扱いではなかったものの、2年間の捕虜生活を経て、父は一層板東への思いを募らせた」と振り返る。

 ハーケさん自身も忘れられない体験がある。初めて鳴門市を訪れた1974年、実際にドイツ兵と交流していた板東の人たちから話を聞くことができた。そこには、父が語っていた友情と信頼が確かにあった。ハーケさんは感動で涙をこらえることができなかったという。

 後日、感謝の気持ちを込めてドイツ館に寄付金を贈った。これら元捕虜や子孫らの浄財を活用し、収容所跡地を見渡せる丘に「ばんどうの鐘」が建てられた。83年6月12日のことだった。

 「あの鐘はまだ鳴っているんでしょうか?板東の人間愛と日独友好のシンボルとして、いつまでも大切に残してほしい」

 ドイツから帰国後、確かめに行った。ハーケさんらの思いが詰まった鐘は今も1日3回、板東の丘で鳴り響いている。