ヘルマン・ボーネル
ボーネルの業績について語る教え子の井上さん=大津市の自宅

◇知識人◇日独文化の懸け橋に

 「ベートーベンの第九交響曲は、われわれ人類が所有する最も偉大な作品の一つである。かつての古代人をまねて、今日世界の七不思議を挙げるとすれば、この交響曲をその一つに数えなければならないであろう」

 1918年6月1日、鳴門市にあった板東俘虜収容所での第九アジア初演に合わせ、事前に行われた解説講演はこんなふうに始まる。

 この格調高き講演の講師は、ドイツ兵捕虜きっての知識人だったヘルマン・ボーネル二等海兵(1884〜1963年)。教師として派遣された中国・青島で出征して捕虜となり、解放後は大阪外国語学校(後の大阪外国語大)で41年間にわたってドイツ語を教えた。さらに、聖徳太子や能などの研究でも知られる。

 「板東の元捕虜で日本で活躍した人は少なからずいた。中でも、ボーネル先生は日本の外国語教育や日本研究に大きな足跡を残した人物でした」

 現在のボーネル研究の第一人者で、大阪外大での最後の教え子の一人、井上純一さん(75)=立命館大名誉教授、大津市=は恩師についてそう語る。

 板東収容所ではさまざまな専門知識を持った捕虜が多く、音楽や演劇に加えて講演活動も盛んだった。ほぼ週2回のペースで開かれ、ボーネルも第九の解説のほか、ドイツの歴史と芸術について計36回講演している。

 彼は日本や中国に関心のある捕虜と研究サークルを結成。捕虜からの寄稿文を編集し、収容所内で回し読みした。この活動の際、通訳担当の捕虜だったクルト・マイスナーから日本語を学んだことが、後の日本研究への第一歩となった。

 「先生は背筋がピンと伸び、謹厳実直を絵に描いたような人だった。精神性を感じさせる日本の自然も好きだったようです」。井上さんは笑顔で学生時代を懐かしむ。

 ただ、頑固な面もあった。板東でも居住スペースの狭さに不満を抱き、文句が絶えなかったという。

 一方、後年に残したメモでは、板東の経験が日本研究に大いに役立ったことを認めている。

 井上さんの説明はこうだ。「板東での講演活動を通して自国の文化に深く、多面的に向き合った。その経験が日本を単なる異国趣味で捉えるのではなく、独自の文化の本質に迫った研究につながったのでしょう」

 そしてボーネルは、原文に忠実なドイツ語訳で「神皇正統記」をヨーロッパに紹介したほか、世阿弥の著書の翻訳に着手した先駆けとなった。能の入門書もまとめ、今もヨーロッパの愛好家に親しまれている。

 ボーネルは、井上さんがドイツ語を教わっていた大学3年の6月、79歳で他界した。墓は神戸市の再度山に建てられた。生前、「どこかドイツに似ている」と気に入っていた場所だった。

 ボーネルは千人近くの教え子を育て、後にドイツ語教員などとして日独の懸け橋となった人も少なくない。

 井上さんは言う。「板東収容所は地域にドイツの文化や技術を伝えた。実はボーネル先生自身も、板東の大きな遺産だったのかもしれません」。