ドイツ橋の前で建設の経緯を説明する佐藤さん=大麻比古神社境内

◇建造物◇「名勝」になった石橋

 鳴門市の大麻比古神社の本殿裏には、厳かな静けさをたたえる林が広がる。第1次大戦中、神社近くにあった板東俘虜収容所のドイツ兵捕虜たちも木立の中を散策した。

 「樹齢100年を優に超える大木は少なくない。彼らもこの木を見上げていたのかもしれません」。徳島大生物資源産業学部准教授の佐藤征弥さん(54)は、ひときわ幹回りの太いヒノキを指さす。

 佐藤さんは2015年、ドイツ兵が境内に残した建造物の調査論文をまとめた。何度も足を運んだ本殿裏には、西洋風の「ドイツ橋」と「めがね橋」という二つの石橋が架かる。アドルフ・ドイッチュマン築城少尉が捕虜たちを指揮し、数本のシャベルやつるはしなど限られた道具を使って造ったものだ。

 収容所新聞「ディ・バラッケ」に残された記録では、1917年9月からの2年間で境内に木橋六つ、石橋四つを築いた。現存するのは石橋二つだけだが、佐藤さんは最近見つかった神社の古い境内図などを用いて調査。失われた橋に加え、記録にある散策路や石段についても造られた場所を推定した。

 「乏しい道具で、2年間にこれだけのものを造ったことに驚嘆する。しかも強制的な労働ではなく、彼らの自発的な作業でした」

 「ディ・バラッケ」などによると、当初は板東町(現鳴門市)からの要請を受け、志願した捕虜が有償で木橋の建設に取り掛かった。しかし、1人当たりの配分は少なく、結局はボランティアとなった。それでも捕虜たちは、自らの技術を発揮しようと、ミニチュアの石橋で腕慣らしをした後、堅固な石橋造りに挑戦した。この本格的な石橋がドイツ橋だった。

 佐藤さんは当時の捕虜の心境について推し量る。「板東がいくら寛容な運営だったといっても、統合前の徳島や松山での収容所暮らしを含めると長期間にわたる。橋造りの創造と労働によって、心身をリフレッシュできたのでしょう」

 ドイツ橋は建設時から地元住民の関心を集めた。「ディ・バラッケ」には、捕虜たちの帰国を祈っていた地域のお年寄りたちが、橋を見に来ては感心していた様子が記されている。橋の要石が打ち込まれたのは19年6月27日だった。神社の老宮司が重い石づちを3度振り下ろし、「この橋が1万年の50回(未来永劫の意味)持ちますように」と祈願したという。

 ドイツ橋は捕虜たちの解放後、観光名所となり、36年刊行の「徳島県新名勝案内」でも紹介された。さらに60年代半ば、地域住民は橋周辺を再整備して景観美化に努めた。

 佐藤さんに協力し、再整備の概要について古老に聞き取り調査を行ったのは、神社事務員の種ケ嶋絵理さん(40)。板東で生まれ育った種ケ嶋さんは、ドイッチュマンが残した言葉を引用して地域の思いを代弁する。

 「戦争捕虜によって自発的に無償で建設されたドイツ橋は何がしかの意義を持つ−。確かに私たちにとって、彼の言葉にうそはありませんでした」

 50万年にはまだ程遠いが、既に100年近くの時を積み重ねた。それでも日独友好を象徴する石橋は、今も揺るぎない姿をとどめている。