立木真一さんが撮影した徳島大空襲後の市街地。4枚のパノラマ写真のうちの1枚(立木写真舘提供)

◇エンゲル楽団(中)◇空襲宝の楽器が灰に


 「エンゲル団 俘虜の楽器を買い入れて俘虜楽団に負けぬ意気込」

 徳島日日新報(徳島新聞の前身)の1919年12月24日付の紙面には、こんな見出しの記事が掲載されている。要約すれば次のような内容だ。

 第1次大戦中、鳴門市にあった板東俘虜収容所にいたドイツ兵捕虜のオーケストラに刺激を受けた市民有志が、帰国する捕虜から多くの楽器を譲り受けて楽団を組織する。ドイツ兵のパウル・エンゲルに師事したことにちなんで「エンゲル音楽団」と称し、洋楽器の所有者は男女を問わず会員となることができる−。

 さらに、事務局は当時、徳島市紺屋町にあった「立木写真舘」に置き、音楽思想の普及のため公開演奏を展開していくことなどの会則も添えられている。

 「大正時代の徳島には新しい物好きの人が多かったんですね」

 団員の一人、仁木朋七さんの孫で、徳島市東大工町で洋楽器店を営む仁木陽子さん(65)は、「祖父にも当てはまる」と笑みをこぼす。

 朋七さんが残したメモや証言によると、楽団は徳島中央公園にあった公会堂「滴翠閣」で初公演を開き、紋付きの羽織はかま姿で「ドナウ川のさざなみ」を演奏した。他の団員が家族に伝えた話では、地元婦人会に招かれて演奏会を開いたこともあったという。

 ところが、こうした活動は長くは続かなかった。帰国後も新楽譜の送付などで協力してくれると見込んでいたエンゲルの行方が分からなくなったこと、世界的な大不況の時期を迎えたこと。さまざまな理由を背景に、昭和初期には自然消滅してしまったようだ。

 それでも、団員たちは音楽を愛した。両国橋に茶販売店を創業した沖野正さんはもともと音楽家志望で、エンゲル本人からチェロなどの楽器を預かっていた。

 孫で現店主の高穂さん(71)は「東京から捕虜の楽器の話を知った人が買い取りにやって来た。しかし、『これはエンゲルさんから預かっている楽器だから』と耳を貸さなかったそうです」と話す。

 しかし、大切な楽器も楽団の資料も、全てが一瞬で消え去った。45年7月4日未明、徳島大空襲で市街地は文字通り焦土と化した。

 団員の一人で、立木写真舘2代目の立木真一さんは重い機材を抱えて眉山に登り、配給制で数に限りがあった写真乾板を使ってシャッターを切った。

 「写真でしか残せないものがある。後世のため、この風景を撮らなければという使命感にかられたのでしょう」。孫利治さんの妻で、現社長の恵美子さん(83)は、一人の写真家として真一さんの心情を語る。

 団員に残されたのも、立木写真舘で撮った1枚の集合写真だけだった。

 沖野さんは失意の中で体調を崩し、終戦翌年の46年に他界した。終戦直後、焼け野原の中で産声を上げた高穂さんは悔しがる。

 「もしあの戦争がなければ、ドイツ兵との交流の歴史、そして豊かな徳島の文化はもっと違った形で今に伝わっていたでしょう」

 やがて徳島の若者たちが青春の情熱を傾けた楽団は、歴史のひだに埋もれていった。再びその名前に光が当たるのは、平成の世になってのことだった。