ヨハネス・バートさん

バートさんの長女ルビー・コーバーさんから西田さんに宛てた手紙

自由な生活3度奪われ


 第1次大戦時、板東俘虜収容所の捕虜だったヨハネス・バートさん(1891〜1981年)は、解放から20年間ほど平穏な日々を過ごした。

 解放直後に関西の商社に就職。紹介してくれたのは「親しくしていた前田という徳島の歯科医」(林啓介ら著「板東ドイツ人捕虜物語」)だった。

 おそらく前田利行さん(1872〜1966年)。板東収容所で治療に当たり、独学で古木の再生技術も築いた。後に移住した岐阜県で、枯死寸前だった日本三大桜の淡墨桜をよみがえらせ、「昭和の花咲かじいさん」と呼ばれた人物だ。

 その後、バートさんは上京して貿易会社を起業。妻千代さんとの間に娘2人をもうけ、事業も軌道に乗せた。

 ところが、運命は一変する。バートさんと親交のあった元鳴門市収入役の西田素康さんは著書「鳴門歴史散歩」の中で、「世界広しといえどもこうした体験の持ち主は、バート氏ひとりのみであるまいか」と記した。

 というのも、板東を含め3度も自由な暮らしを奪われたからだ。

 41年6月、商用のためシベリア経由でドイツへ向かう途中、独ソ戦が勃発。ソ連兵に銃を向けられ、2度目の捕らわれの身となった。独ソの捕虜交換によって、トルコでしばらくとどめ置かれた後に釈放されたが、日本に戻れないままドイツで3年間を過ごす。

 当時、連合国軍の目を逃れて日本とドイツを行き来できたのは海面下のみ。44年、日本軍の潜水艦に便乗し、シンガポールにたどり着いた後、軍用機で日本へ。そのすぐ後、乗船していた潜水艦は米軍の魚雷によって沈められた。

 この決死の航海については戦史小説「深海の使者」(吉村昭著)に詳しく、バートさんの名前も登場する。

 命からがら妻子の元に戻ったものの、終戦後、今度は進駐軍に財産を没収され、敵国人としてドイツへ強制送還。再び家族との間を引き裂かれた。

 サンフランシスコ講和条約が発効した52年、ようやく日本に帰ってくると、次女ミアさんは病気で亡くなっていた。まだ18歳。最期をみとれなかったバートさんの胸に、消えない悲しみを残した。

 晩年、バートさんは西田さんに「戦争は罪悪だ。絶対に繰り返してはいけない」と強く戒めたという。

 その西田さんも2015年7月、83歳で鬼籍の人となった。鳴門市ドイツ館によると、西田さんは神奈川県逗子市で暮らしていたバートさんの長女ルビー・コーバーさんとも親しかったようだ。

 ルビーさんも90歳を超える年齢。今も逗子にいるか分からないまま、西田さんの次女小林律子さん(53)に連絡先を尋ねた。

 すると、「父の家から出てきたものです」と封筒の束を見せてくれた。ルビーさんからの手紙だった。最後の日付は15年12月25日。西田さんが亡くなった後、しばらくたって見つかったという。

 ルビーさんの住所を確かめると、米国北部のグリーンベイとあった。過去の手紙に目を通し、11年に夫ロナルドさんが生まれた米国に移住していたことが分かった。そして「長男がまだ東京に住んでいる」とある。

 バートさんの孫は日本で暮らしていた。ぜひ会いたいと、その消息をたどった。