ハレンさんが父に代わって書いた手紙のコピー。左から2枚が楷書体、右端が筆記体

父の絶筆娘が引き継ぐ


 鳴門市ドイツ館を巡り、ある感動的なエピソードが伝えられている。

 ドイツ館は1972年5月、第1次大戦中に板東俘虜収容所にいた元ドイツ兵捕虜の熱意に応えて建てられた。建設のために何人もの元捕虜から浄財が寄せられ、そのうちの1人がドイツ北部のブレーメンで暮らすルードヴィヒ・ヴィーティングさんだった。

 この年の1月、ヴィーティングさんは寄付のために手紙を下書きしていた。ところが、その月末に体調を崩し、2月4日に80歳で急逝してしまう。

 しかし、寄付金の小切手と3枚の手紙は徳島に届けられた。

 最初の2枚はヴィーティングさんが起草した文面だった。

 「ドイツと日本の友情を快く思う板東の元捕虜として、私はこの建物の建設を特に喜んでいます」

 そして、もう1枚は次女インゲマリー・フォン・ハレンさん(88)が添えたものだ。

 「父は突然死去し、手紙を自分で清書することができませんでした。父の望みをかなえることは、私と私の母にとっての義務です。これを父自身によって書かれたものとみなしてください」という内容が記されていた。

 元捕虜の絶筆を娘が代わりに届けた−。この手紙は当時、日独交流に携わる人たちの大きな感動を呼んだ。

 ただ、ドイツ館で手紙のコピーを見せてもらうと、ハレンさんが清書した最初の2枚と、書き添えた1枚の筆跡が全く異なる。いずれもハレンさんが書いたものではないのだろうか?

 徳島日独協会の石川栄作事務局長(65)の協力で、ブレーメンで暮らすハレンさんの長女フリーデリケ・コッホさん(62)に確認したところ、真相を教えてくれた。

 「祖父は下書きを終えた時点で体調を崩し、母に清書を頼みました。母は楷書体で祖父の文面を書き、最後の1枚を自分の筆記体で書いたのです」

 筆跡が異なるため、これまで「ヴィーティングさん直筆の手紙を途中で娘が書き継いだ」という解釈もあった。しかし、そうではなかったことがはっきりと分かった。

 ヴィーティングさんは、板東時代の手記を残した元捕虜としても知られる。元捕虜の日記類は珍しく、収容所の暮らしぶりが生き生きと伝わってくる。

 松江豊寿所長を支えた高木繁副官についてのこんな記述もある。

 「俘虜たちと日本人の間の理解ある関係の柱は高木大尉だった。(中略)この小柄な男性は私たちより少しでも高く見せようと、ビール箱に乗って、しばしば『皆さん、またまずいことが起きたぞ』と語り始めた」

 この手記は2003年、鳴門市民がドイツ・ブラウンシュバイクで開いた「第九」里帰り公演で、ハレンさんによって寄贈された。

 そして今年3月、リューネブルクで開かれた「第九」里帰り公演には、高齢の母に代わってコッホさんが妹と駆け付けた。

 祖父から続く徳島との交流を思うたび、コッホさんに熱い気持ちがこみ上げる。

 「松江所長は、彼の捕虜に対する人道的な扱いが100年たってもなお、ポジティブな結果をもたらしているとは、夢にも思わなかったでしょう。でも、その事実は本当に素晴らしいことですね」。