四半世紀にわたって実現しなかった徳島市のホール建設は、飯泉嘉門知事が突如、「県立」として整備する方針を表明し、10月から有識者らによる「県市協調未来創造検討会議」で基本方針の策定が進んでいる。徳島市のホールとして建設に至らなかったのはなぜか。歴代市長への取材や知事に対する文書質問への回答も交えながら、停滞の歴史を振り返る。

夢ある計画具現化せず 小池市政

 徳島市のホール構想はなぜ生まれたのか。時代は1990年代初頭にさかのぼる。地方ではバブル景気の余韻が残り、国の財政支援を背景に公立ホールの建設ラッシュが起きていた。

小池氏

 「一流の音楽を聴けるホールを徳島にも」。そんな声が文化関係者らから上がり始める。当時、市内には市文化センター(63年開館)と県郷土文化会館(71年)があったが、求められたのは本格的な音楽芸術ホール。92年、12文化団体が市議会に大規模ホールの建設を陳情する。市中心部から南部への移転が決まっていた市立動物園の跡地(徳島市中徳島町)での建設を望んでいた。

 水辺に音楽の殿堂をつくり、文化の薫りが漂う街に。ホール構想はそんな夢のある話として始まった。

 この要望を実現する姿勢を見せたのが、93年に市長に就任した小池正勝氏だった。同年、ホールの場所や規模を検討する市民会議を発足させ、95年には予定地を動物園跡地とする方針を示す。しかし、埋蔵文化財発掘調査こそすれど、小池市政の11年間、着工のめども立たずに滞り続けた。

 2003年の徳島新聞の取材に対し、小池氏は停滞の理由として「市の財政悪化」を挙げている。90年代後半から日本経済はデフレに突入。加えて、小池市政はコミュニティーセンターを各地につくるなど、「ばらまき」とも揶揄される建設投資を行っていた。

 04年、参院選出馬のため小池氏は市長を辞職した。

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