ドイツが生んだ不世出の作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(1770〜1827年)。第九交響曲をはじめ数々の名曲を世に残す一方、波瀾(はらん)万丈の人生を送った人物としても知られる。生誕地のボンで撮影したベートーベンにまつわる写真とともに、ユニークなエピソードを紹介する。
難聴との闘い
ベートーベンが耳が聞こえにくくなったのは20代後半になってから。当時、長さ50センチ以上の大型補聴器を使っていたが、少しの助けにしかならず、48歳ごろからは会話帳がなければコミュニケーションが取れなかった。
31歳の時に難聴への絶望を2人の弟に宛ててつづった手紙が、死後になって発見された。「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるが、死を覚悟した苦悩とともに、人生の苦難を乗り越えてなお命の限り音楽を続けるという決意が書かれている。この思いが、絶望から歓喜に至る第九交響曲の世界観として実を結んだ。
音楽一家
ベートーベンは音楽家の家系で、同じ名前の祖父ルートヴィヒは宮廷歌手として名を成した。しかし、父ヨハンは音楽では大成せず、次第に生活が困窮していった。そこでヨハンが思いついたのが、幼少時から宮廷演奏で人気を博したモーツァルトの後を追うこと。才能豊かな息子にピアノを教え込み、神童としてアピールしようと7歳で演奏会にデビューさせた。
生涯独身
ベートーベンは生涯独身だったが、何人かの女性と情熱的な恋に落ちた。孤独の中で結婚願望を持ち続けていたが、恋文の中で「不滅の恋人」と呼ぶ女性との別れが大きく影響したとされる。相手はイニシャルでしか文中に登場しないため、その人物の特定を巡って議論が続いた。現在はフランクフルトの銀行家の妻アントーニエ・ブレンターノが最有力候補に挙げられている。
また、有名な「エリーゼのために」は、テレーゼ・マルファッティという女性のために作られた曲で、ベートーベンが悪筆だったため、「テレーゼ」が「エリーゼ」と間違えて認識されたといわれている。
フリーの作曲家
ベートーベンは当時の音楽家としては珍しく貴族らのパトロン(後援者)を持たず、宮廷に仕えることも拒んだ。宮廷音楽家は前衛的な曲を作るのは失礼に当たるとされたが、ベートーベンはフリーの作曲家のため、常に意欲的な音楽に挑むことができた。
新たな時代の扉を開いた存在であり、音楽で何かを社会に訴えたいという強い意志を持った最初の音楽家だった。