信念を貫き通す会津人
鳴門市の板東俘虜収容所長を務めた松江豊寿はドイツ人捕虜を人道的に処遇し、ベートーベン作曲の交響曲第九番の日本初演を導いた。戊辰戦争で大きな犠牲を払った会津人として、祖国のために戦い捕らわれたドイツ人に思いを寄せ、世界の平和を訴えた。
松江は戊辰戦争・会津戦争から4年後の1872年6月6日、若松(現会津若松市)で生まれた。旧会津藩士の父久平は戊辰戦争で朱雀士中隊参謀として活躍したが、戦後は斗南(現青森県むつ市)に移り、苦労を重ねた。廃藩置県に伴い、古里の若松に戻ったとされる。松江は父から会津藩が戊辰戦争に敗れてからの悲惨な状況を聞いて育ち、敗者をいたわる精神を培った。
軍人を志し、仙台陸軍幼年学校に入学した。陸軍士官学校を経て、陸軍歩兵少尉に任官されてからは中国各地を転戦した。日露戦争では歩兵大尉として韓国に渡った。その後、浜松、札幌、旭川に勤務し、徳島俘虜収容所長から1917年に板東俘虜収容所長に着任、陸軍大佐に昇進した。
上官との意見の対立が何度かあり、そのたびに自分の信念を最後まで貫き通したという。浜松では上官をいさめて軍法会議にかけられ、無罪にはなったものの不遇な時もあった。
板東俘虜収容所には千人を超すドイツ人が滞在した。他の収容所が捕虜に厳しく当たる中、松江は「国のために戦った捕虜は犯罪者ではない」との信念を抱き、自主性を持たせ、外出も許すなど人道的で寛容に応対した。運動不足にならないように近所の農家と掛け合い、運動場を確保した。そのような境遇に感謝し、捕虜は第九を演奏した。
捕虜らは後に「世界のどこにバンドーのような収容所が存在しただろうか。世界のどこに松江大佐のような指揮官がいただろうか」と回想している。
その後、松江は島根県浜田の第二十一連隊長、陸軍少将に昇任。22年2月に予備役編入となり、50歳で軍人生活を終えた。
退役後は東京・巣鴨に移り住んだ。退役から10カ月後の12月、第9代若松市長に就任。上水道の敷設に力を入れ、市制25周年祝典の成功、県内初のガソリン消防ポンプ車の導入などで手腕を発揮した。
ところが、就任から2年11カ月で突然、市長を辞職した。当時は政争が激しく、非難中傷も多く、市長の職に嫌気がさしたとみられる。
辞職後は財団法人会津弔霊義会の専務理事(現在の理事長職)として戊辰戦争の戦死者を慰霊する活動に本腰を入れた。地元の阿弥陀寺の拝礼殿建設に着手し、飯盛山の白虎隊墓地の拡張を進めた。
35年5月に若松を離れ、その後は東京都狛江村(現狛江市)で余生を過ごした。2千坪の土地で野菜づくりなどを楽しんだ。56年5月21日に生涯を閉じた。83歳だった。
松江が市長時代に住んでいた会津松平家の別荘地は現在、御薬園として保存されている。白虎隊墓地には一年を通じて多くの観光客が訪れ、地元の高校生は剣舞を奉納している。松江家の墓は会津若松市・大塚山の高台にあり、市の今を見守り続けている。
松江の弟春次(1876~1954年)は日本で初めて角砂糖を作った。南洋興発を創立し、サイパンで製糖事業に成功。「シュガーキング」と呼ばれた。会津若松市では松江兄弟を顕彰する法要などが行われている。
記事・福島民報