蜂須賀茂韶も設立に関わった東京海上保険(渋沢史料館の常設展示図録から)

渋沢栄一(渋沢史料館の常設展示図録から)

 渋沢栄一(1840~1931年)は、江戸から昭和まで激動の時代を生き抜き、企業設立や経営に関わり「日本資本主義の父」といわれた大実業家だ。

 大河ドラマの主人公になり、2024年に発行される1万円札に肖像が入ることになった。評価を得ているのは経済至上主義の行き詰まりをみせている今日の世相と関係している。彼の座右の銘「論語と算盤」に象徴される道徳経済合一説や富の社会還元の考え方に注目が集まっている。

 成功の陰には多くの人々の協力があった。その中に徳島藩最後の殿様、蜂須賀茂韶(1846~1918年)がいたことは、あまり知られていない。農民出身の実業家と大名出身の政治家という2人は正反対のようだが、どこに接点があったのか。

 渋沢は、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の富農の家に生まれ、1861(文久元)年に江戸に遊学し尊王攘夷運動に加わった。後に一橋家家臣となり主君慶喜が将軍となったため幕臣となる。67(慶応3)年、パリ万博派遣使節員として歴訪。科学技術に接し、官民に関係なく平等な経済活動によって社会が発展すると学んだ。

 帰国後、政府から招かれて大蔵省に勤めた。大隈重信や伊藤博文、井上馨と共に新制度を設立し33歳で退職。実業家に転身した。73(明治6)年に開業した第一国立銀行など銀行業を中心に株式会社約500社の創立と育成に関わった。

 福祉、医療機関の運営や支援、女子教育、私学教育、さらに民間外交など公益の追求をテーマにした。

 実業の原点は実家の藍玉の製造、販売。商才があり、葉藍栽培の製造者の競争心をあおるため番付表を作った。阿波藍が渋沢の目標だった。

 蜂須賀茂韶は68(慶応4)年1月、徳島藩主となり、直後に明治の世を迎えた。72(明治5)年には私費で英のオックスフォード大に留学して政治、経済学を修め、帰国後は外交官として活躍。さらに政治の世界に身を転じて東京府知事、貴族院議長、文部大臣を務めた。

 この間、渋沢と企業を設立。渋沢が経営を担当し、茂韶は旧大名や公家、富豪を説得して資金を調達した。最初の共同事業は、79(明治12)年8月に作った東京海上保険(東京海上日動火災保険)。海が囲む日本で海難救済の方法がないことに心を痛め、日本初の保険業の海上保険事業を主導した。茂韶が初代社長だった。渋沢と三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が相談役を務めた。

 ジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)の前身「貴賓会」は92(明治25)年、茂韶、渋沢、三井物産社長の益田孝らが発起人となり、茂韶が会長、渋沢が幹事長となった。他に日本鉄道株式会社(JR東日本)や大阪紡績株式会社(東洋紡)、東京人造肥料株式会社(日産化学)などがある。

 2人の共通項は洋行。西欧の科学技術や思想、制度を学び、グローバルな視点で日本を発展に導いた。良好な関係は茂韶が亡くなるまで続いた。