「幕末讃岐の種痘医 神内喬木文集」。表紙には種痘論の項が使われている

 170年前の江戸後期、天然痘ワクチンとして種痘の接種が行われた際、讃岐では住民や古い考えを持つ医師が種痘を躊躇(ちゅうちょ)していたことが分かる史料が現代語としてまとめられた。四国大の太田剛教授が、漢方医神内喬木(じんないきょうぼく・1817~93年)の伝記「幕末讃岐の種痘医 神内喬木文集」として刊行。神内が誠実に説得するなど奮闘ぶりが伝わる内容だ。

 神内が種痘を讃岐で始めたのは、1850(嘉永3)年の春。当時、天然痘は難病とされており「漢方の治療では限界がある」と悟ったからだ。徳島では49年から50年に徳島藩医の井上春洋が1万人以上に実施している。

 神内は、天然痘を最大の脅威と捉えた。「種痘論」と題した文章の中で「人が心配するもののうち天然痘以上のものはない。人が生きる限り、その病気からは逃げられない」と述べている。

 種痘が導入された後、天然痘による死亡者がほとんどいなくなったことを認め「歴史上、今までなかった奇術」と書いている。

 しかし、西洋医学の種痘は、社会に円滑に浸透したわけではなかった。文集からは、神内がためらう住民や種痘の効果に疑念を抱く医師に対し、誠心誠意、説得に当たる様子が分かる。

 神内は、ある医師に「怠慢の罪は百叩きの刑に匹敵します」と強い調子で書き始め、続けて「以前、お子さまへの種痘をさせると約束されましたね。それから3年たちましたが、音沙汰がないのはなぜでしょうか」と問い詰めた後、次のように説得を試みた。

 「私は人の父母である者を見るたびに彼らを善誘し、種痘を実施した。願いは人々を天然痘の苦しみから救うことだけである」

 文集は、太田さんが神内の子孫の要請を受け、約7年前に解読を始め、遺稿集として昨春刊行した。370ページ、3000円。問い合わせは太田さん<電088(665)9705>。