震度7を2度観測した2016年熊本地震の「本震」から16日で5年。震災直後、家族を妻の実家がある上勝町に避難させ、熊本県西原村の災害ボランティアセンターで中心的役割を担った藤本延啓(のぶひろ)さん(50)=熊本学園大講師、西原村河原=に、当時の経験を振り返ってもらった。「被災者は見た目の復興と自分の中の復興とのギャップに苦しむ」と述べ、「日頃から何ができるかを考え、災害時は状況に合わせて柔軟に対応することが大事だ」と訴えた。
西原村は前震震度6弱 本震震度7 死者9人、負傷者56人
藤本さんが住む西原村は、熊本市から約20キロの位置にある。2016年4月14日の前震で震度6弱、16日の本震で震度7を観測。震災当時の人口は7049人(2652世帯)で、人的被害は死者9人(うち関連死4人)、負傷者56人(重傷18人、軽傷38人)(20年9月現在)に上った。建物被害は全壊512棟、大規模半壊201棟、半壊664棟と、村内2474棟の半数以上に当たる1377棟が全半壊した。
地震におびえて長男震え 「1回目とは比べものにならない揺れ」
藤本さん宅は平屋で、妻、3歳の長男、生後4カ月の次男と4人暮らし。前震の際、水道が使えなくなったが、停電はせず、翌日には自衛隊の給水が始まった。「もう地震は来ないだろう」と思っていたが、東日本大震災の被災地で知り合った石巻日日新聞の記者から「気を抜くな、大きいのがもう1回来る」と連絡をもらい、寝る場所を変えた。リビングで就寝中だった16日午前1時25分、震度7の地震が発生。1回目とは比べものにならない揺れに襲われ、本棚など全てが倒れた。「揺れた瞬間に停電し、長男がぶるぶる震えてました。ずっと抱きしめていました」。
小学校グラウンドに避難して車中泊
避難グッズを準備し、明け方に車2台で近くにある河原小学校に向かった。車内で数時間眠り、目が覚めると、グラウンドは同じように車中泊している車でいっぱいだったという。近所の住民と一緒に自宅を見に戻る途中、地面が割れていた。「まだ情報は入ってきていなかったが、消防団に話を聞くと『どこそこで人が死んだ』とか『道路がめくれとる』と言っていて、『これは大ごとやな』と感じた」と藤本さん。自宅は一部が損壊していた。集落内で大きな被害はなかったものの、隣の集落では家が全壊するなど、場所によってはひどい状況だというのが伝わってきた。避難所運営をしていた役場職員から「インフラがいつ復旧するのか、今後どうなるか分からない」と聞き、家族の負担も考えて妻の実家のある上勝町に避難することを決めた。
妻の実家・上勝町に避難 自身は西原村で災害ボランティアセンターの統括役に
17日午後、車で福岡の友人の家まで移動し、泊めてもらった。翌18日に飛行機で徳島へ。「長男はテンションが高かったので逆にちょっと心配だったが、妻は落ち着いた様子でした」と振り返る。藤本さんは上勝町で1泊して、20日には西原村に戻った。
西原村を出る際、道路はガタガタで、崖から落ちている家を何軒も見た。「想像以上に村内の被害がひどく、村だけで何百人も亡くなったんじゃないかと思うような状況だった」という。「村で何かできることをやろう」と思って避難所に向かうと、避難所内は落ち着いた雰囲気でうまく運営されていた。村役場に行くとかなり混乱していて、続々と届く支援物資が整理し切れていなかった。災害ボランティアセンターは設置されておらず、ボランティアの受け入れもできない状態だった。藤本さんは物資の仕分けを手伝い、22日に災害ボランティアセンター立ち上げのミーティングに参加。24日にはセンターが開設され、周囲の勧めでセンターの統括に就くことになった。「人口7000人の村で(ボランティアセンターを開設する)社会福祉協議会の規模が小さく、センターに割ける人員が非常に少なかった。災害は完全に専門外で、東日本大震災の後片付けの作業経験しか無かったが、外部からの支援も多く入って混乱していた中で、村内に知り合いもまあまあいて『大学教員の自分が間に立つ立場としては適しているかもしれない』と思って話を受けた」。
外部支援を生かした運営 他団体と連携へ「西原村rebornネットワーク」設立
災害ボランティアセンターは、ボランティアの受付や資材の管理、ボランティア先の地区・住民との調整などを行う。運営のポイントとなったのは「人的・物的資源の配分」だった。
西原村は村全体で何かをやる仕組みは弱かった。だが、運営の中核に外部の人間を受け入れ、柔軟に対応したことで人員や資源をうまくやりくりすることができた。全体の運営は20~30人で行い、資機材の管理や重機の運転、農業支援など、一般ボランティアやスタッフの得意分野に合わせて作業を変えた。
震災後、間もなくゴールデンウィークに入ったため、連休中は多くのボランティアやスタッフが駆け付けてくれたが、人が減る休み明けにどう体制を回すかも課題だった。この頃、村内には村の被害を知って地元に戻ってきた学生や社会人、NPOなどによる支援団体が立ち上がっていたため、ボランティアのニーズとボランティアをしたい人、それぞれの団体をつなぐ「西原村rebornネットワーク連絡会議」を立ち上げた。ボランティアセンターで全てやる必要はなく、外部資源をうまく活用した。
藤本さんは大学での講義や業務をこなしながら、運営を統括する生活を続け、7月末に統括を退任。11月にボランティアセンターが閉まることになり、継続して西原村の今後を考える場が必要だと考えて「西原村rebornネットワーク」を立ち上げた。
5年たちインフラ整備が進む一方、自分の中の「復興のギャップ」に苦しむ
「見た目の復興と自分の中の復興のギャップに苦しむんですよね、被災された人って」。数カ月前まで通れなかった道路が復旧し、「インフラ的にはほぼできあがったかな、という印象はある」としつつも、5年たった今も仮設住宅に住んでいる人が多くいる現状に「復興・復旧は全体的な面と個人的な面と別に考える必要がある」と指摘する。
「復興とは自分の中に受け入れていく過程であり、それぞれの人が何を抱えているかは、はたからは分からない。被災とか復興はものすごく多面的・複合的で、かつその後に起きた状況も積み重なって変質していくと感じている」。
藤本さん自身は、父親や夫、村民、大学組織の一員としての立場の中で「いろんなやるべきことがあって、地震が起きてできることの限界を超えた。どういう立場でどう生きていくのか、すごく問われている気がしている」と話す。「『次の災害に経験をつないでいくことが恩返しだ』と言われたのに他の被災地に行けず、できていないことがつらくて、もやもやした気持ちをずっと抱えていてる。ある意味これも被災なのかな」とつぶやく。
災害にあったときにできることはなにか
被災経験者としての教訓を尋ねると、「自分に何ができるかを日々考えておくことかな。何ができて何ができないのかを柔軟に考えることが大事」という。「熊本の場合は2回地震が起きて、福祉避難所へ行く道路が崩れたり、益城町の避難者をすでに受け入れていたりして、福祉避難所が使えなかった。今回は夜、自宅にいる時に地震が起きたが、日中、自分が大学にいる時に起きていたら、家族が死んでいたかも知れない。今回、崩れた阿蘇大橋はGW中は渋滞する。GWの日中に起きていたら、橋の崩落で何百人も死んでいたかも知れない」と振り返り、「災害時は前提条件が崩れる。状況によって前提が変わるし、何でも起こる。決めつけないで、やれることは何でもやるようにする仕組みと気持ちが大事かなと思います」と助言した。
藤本さんは、避難者を受け入れる行政側も柔軟性が必要だと指摘する。「熊本地震の際は車中泊が多かったため、地元の人や企業の協力を得て、芝の畑にテント村を作った。そこを避難所に指定すれば、水や物資など公的な資源を投入できるが、村は『建物ではないので』となかなか受け入れてもらえなかった」と西原村での対応を例に挙げ、「決まり事で終わらせず、その場その場で適切にできる限り柔軟な対応ができれば、救える人が増えると思う」と話した。