今から40年以上前の1979年秋、徳島市の眉山を登る研究者たちがいた。率いたのは大塚製薬の技術部長で、「味の天才」と呼ばれた故・播磨六郎氏(後に大塚食品会長)。発汗で失った水分と電解質(イオン)を補給する新商品ポカリスエットの味をどう決めるか。2種類の試作品を飲み比べるためだった。
「播磨さんと技術員の合わせて5人が登った。運動して汗をかいた後、糖質濃度が高い方と低い方のどちらがおいしく飲めるかを試しにいった」。当時部下として播磨氏を支えた大塚製薬生産技術部の高市晶久顧問(78)は振り返る。
糖度が高い方は味が良かったが、汗をかいた後の山上では低い方が滑らかに喉を通り過ぎた。記憶に残るものより、すぐ忘れそうな味が向いているのではないか―。そんな理由で最終的な味が決まった。一般的な清涼飲料の糖度が10%以上だった当時、約6%という異例の低糖飲料の誕生だった。
大塚の名を一躍知らしめることになったポカリスエット。開発の舞台となったのは徳島市川内町の徳島工場だ。
大塚製薬によると、72年か73年の出来事とされる。播磨氏がある植物を原料にした飲料開発のため出張したメキシコで感染症による激しい下痢に襲われ、脱水状態に陥った。現地の病院で医師から薬と水分補給に必要な炭酸水を手渡され、体調が回復した。
帰国後、播磨氏は周囲にこう語った。「その時、思った。ごくごく飲みながら栄養も一緒に補給できる飲み物があればと」
高市顧問はその後の73年10月10日、徳島工場長だった故・大塚明彦氏(後に大塚ホールディングス会長)から「『汗の飲料』はできないかな」と言われたことを鮮明に覚えている。こうして発汗で失われた水分と電解質を簡単に補給する商品像が固まっていく。
ただ、商品として世に出るまでに時間がかかった。76年に開発が始まったものの、大きな壁が立ちはだかった。その一つが電解質特有の苦味だった。汗の成分を研究し、千種類以上の試作品を作製。試行錯誤の末、ある柑橘系果汁を加えることで課題を解決した。
最終的な味を決めた眉山登山から約半年後の80年4月、ようやく販売が始まった。とはいえ「全く新しいカテゴリーの商品で、市場開拓は一筋縄ではいかなかった」(大塚製薬広報)。
当初は人気の炭酸栄養飲料オロナミンCドリンクを置いている店でも「味が薄くて売れる気がしない」とそっぽを向かれた。
缶のデザインも独創的だった。製品のコンセプトを象徴する鮮やかなブルーを採用。今では当たり前のように使われているが、当時の飲料業界では売れないとタブー視された色だった。
大塚製薬の社員らがスポーツ会場やスーパー、銭湯、サウナなど汗をかきそうなあらゆる場所に出向き、「どんな場面で必要か」と説明しながらポカリスエットを無料配布した。その数は初年度には3千万本以上にも及んだ。
92年以降は、全国の学校や職場などで熱中症の啓発・予防活動をスタート。宮沢りえさんや綾瀬はるかさんら売り出し中の若手女優らをCMに起用したのも発信力を高めた。
こうした取り組みの結果、2008年には300億本(340ミリリットル換算)を突破した。誰もが知る国民的な飲料に成長し、日本を含むアジアを中心に世界20カ国・地域以上で親しまれている。革新的な製品に使われたブルーは大塚をイメージする色として、県民に浸透している。
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鳴門市で化学原料メーカーとして発祥し、9月に100周年を迎える大塚グループには、発売から数十年を経てもなお愛され続けるロングセラー商品がいくつもある。大塚の代名詞ともいえる各ブランドはいつ、どのように生まれたのか。連載第2部ではその誕生秘話や成長の軌跡をたどる。