牟岐港を歩く竹本さん(右)と中磯さん。昭和南海地震から75年がたち、港の風景も当時から大きく変わった=牟岐町牟岐浦

 その冬の夜、5歳の竹本正勝ちゃんは、いつものように1階の和室で両親や2歳の弟と並んで布団に入った。自宅は浜に面した木造2階建て。2階では祖母と3人の姉、泊まりに来た近所の子どもが寝ていた。

 未明、家がグラグラ揺れた。地震だ。母を見ると、戸が倒れないよう慌てて押さえている。揺れが収まると皆で浜側の外に出たが、寒くて仕方ない。「また寝よか」。布団に戻った。

 「津波やー」。海の方から大きな声が聞こえ、飛び起きた。弟を抱えて道に出た姉が「もう波が」と叫ぶ。石油の入ったドラム缶が流され、ゴロゴロと大きな音がする。「間に合わん、2階へ上がらんか」と母。向かいの家から「南無妙法蓮華経」と必死に唱える声が聞こえる。2回目の波で2階の畳が浸かった。くるぶしまで水がきた。

 竹本家から20メートルほど離れた中磯家では、9歳の長男清春君が、母や祖父、5歳の妹、1歳の弟と一緒に就寝中だった。漁師の父は長崎の五島列島に出稼ぎに行って留守だった。

 「津波が来るぞ」と声を聞いた清春君が、家の戸を開けると水が膝丈まで来ている。方々から「おとう、おかあ、助けてくれ」と叫ぶ声が聞こえる。路地に出たところで波に流された。

 1946年12月21日、昭和南海地震とその津波に襲われた牟岐町牟岐浦の様子である。今、正勝ちゃんは79歳。中磯君は83歳。津波から生き延びた。2人とも代々続く漁師の家に生まれたが、牟岐町に津波が来るとは聞いたことがなかった。津波の記憶の継承を、口伝に頼る時代だった。

 中磯さんは流された後、漁船に引き揚げられた。翌日、母と妹が亡くなったと祖父から知らされた。遺体は家から150メートル離れた所で見つかったという。弟も流されたが、助けられている。竹本さんの向かいの家で題目を唱えていた家族も犠牲になった。

 この日、牟岐町では52人が命を落とし、1人が行方不明となった。

 牟岐町の被災者の証言を集めた本がある。「海が吠(ほ)えた日」。昭和南海地震から50年目の節目に当たる96年に、牟岐町教育委員会が発行した。編集を担った中山清さん(90)=同町河内=は、犠牲者がどのように亡くなったかを丹念に調べている。

 9人のうち7人が犠牲になった家族がある。夫婦と祖母、6人の子どもが暮らしていたが、夫は病気で妻は臨月。隣人が「逃げんか」と声を掛けたが、誰も逃げなかった。2人の子どもだけが流されているところを助けられた。

 中山さん自身も被災した。旧制中学校の教員から聞き、津波が来ることは知っていた。「ただ、正しい知識はなかった」。川沿いの道を逃げようとして、父に止められた。

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 災害発生時、人はどう行動するのか。それを知りたいと、75年前の被災地・牟岐町を訪ねた。「津波が来ると知らなかった」「まだ大丈夫と用事をした」「病人がいて動けない」―。さまざまな状況で、命が失われていた。そして悲劇のいくつかは、東日本大震災でも繰り返されている。

 災害は、自然と人間社会がせめぎ合う中で起きる。地震や津波は止められず、今は予測も難しい。では、もう一方の「当事者」である人間のことを、私たちは十分知っているだろうか。地震や津波のメカニズムを学ぶのと同様、自らを知れば、犠牲を減らせるのではないか。災害時の人の心のありようと行動を探った。