「じいさんが始め、僕で3代目。ここでよく遊びました。ここは僕のふるさとでもある」。映像の中でそう語っているのは、鳴門市民会館前で青空市を開いてきた馬居勉さん。市が制作したアーカイブ映像「鳴門市民会館の記録」の一コマだ。1961年に完成した市民会館は建築家増田友也(1914~81年)の初期の名作。新市庁舎整備のため市は昨年9月に閉じ、今年、解体した。記憶を継承しようと制作されたのがこの映像だ。さまざまな市民活動の舞台となってきた59年間を振り返り、専門家へのインタビューで設計に込められた思想に迫っている。

⇨「ここにいる市民の姿含めて記録」アーカイブ映像の制作担当者に聞く

増田友也の初期の名作鳴門市民会館。鮮やかなブルーと波打つような屋根が印象的だ。新市庁舎整備のため解体された (以下、写真はすべて鳴門市が制作した「鳴門市民会館の記録」より)
 

 ローラースケートやレスリングなどスポーツだけでなく、成人式、日本脳炎ワクチンの集団接種、選挙の投開票所-。映し出される約60枚の写真は、会館が市民にとってとても身近な存在だった様子を物語る。

成人式 (1964年)
日本脳炎ワクチンの集団接種(1969年)

 ゆかりある市民へのインタビューも収録。子どもの頃から市民会館に親しんできた馬居さんは「ここが鳴門のへそだった」と述懐する。中学時代からここで卓球を続けてきた鳴門市卓球協会代表の西谷茂さんは、初めて公式戦で1勝した場所が市民会館だったと振り返る。

にぎわっていた青空市

 主張のあるデザインで存在感のある造形を生むことを目指す建築家がいる一方、増田は風景のひとつのピースとなり、人間の営みに光を当てる建築を目指した。鳴門市建設部に勤務していた古林庸策さんが語る「増田先生は来たら鳴門の話を聞いてくれた」というエピソードからは、土地を知ろうとする、増田の姿勢の一端がうかがえる。

鳴門市民会館。鮮やかなブルーと波打つような屋根が印象的

 市財政が悪化する中でつくられた市民会館は、低コストに抑える必要性に迫られた。京都大の田路貴浩教授はこれが功を奏したとみる。「市民会館と言いながら体育館だし、体育館なのに市民会館という不思議な建物。お金がなかったのがよかったのかもしれない。ミニマムな空間になっていて、それがかえっていい」

「市民会館のようで体育館」と田路教授が表現する内部。アリーナと観客席が近くて「アットホームな雰囲気」とも

 アーカイブ制作に携わった専門家のインタビューもあり、それぞれが市民会館への思いや見どころを語っている。

 鳴門市には増田による建築が19棟つくられた。1959年から市長を7期28年務めた谷光次(1907~2002年)が京都帝大の出身だったことから、増田が勤めた京都大に公共建築の設計を依頼したためだ。うち市民会館や市役所本庁舎、遺作となった市文化会館など5つがモダニズム建築の保存や記録に取り組む国際学術組織「DOCOMOMO」の選定建築になっている。

 市の計画では市民会館に続き、市役所本庁舎と南隣の共済会館も解体する。遺作となった鳴門市文化会館は本年度から休館し、調査を経て耐震化される予定だ。

鳴門市民会館と現市庁舎を解体した跡地には、新庁舎や駐車場が整備される。新庁舎の実施設計施工者の優先交渉権者は前田建設工業を中心とした共同事業体(JV)で、設計は建築家内藤廣氏の設計事務所が担う

 「建築の根本を問題にした建築家として日本では希有(けう)な存在」。増田について、田路教授はこう指摘している。人間にとって建築とは何か。ハイデガーや道元の思想に依拠しながら、増田は生涯、思索し続けた。「そういうことを考えた建築家が鳴門でたくさんの仕事を残した」。それが重要なことではないかと田路教授は語る。

 

増田友也(ますだ・ともや)1914年、兵庫県三原郡八木村(現・南あわじ市)生まれ。39年に京都帝大建築学科を卒業し、満州炭鉱工業会社に就職して戦中期を大陸で過ごす。50年から78年まで、京都大建築学科で講師、助教授、教授を歴任。78年に京都大名誉教授となり、80年から81年には福山大で教授を務めた。81年、食道がんで死去。享年66。鳴門市内や京都府内を中心に、61の建築をつくった。