オリンピックは平和の祭典である。57年前、前回東京五輪の閉会式の光景が象徴的だ。国や人種を超え、入り乱れて行進する選手たち。五輪の意義は彼らが放つ輝きにある。

 東京五輪の開幕まで2カ月。果たして、現状は平和の祭典にふさわしいものだろうか。日本で五輪を開く意義はどこにあるのか、改めて問われる事態に直面している。

 国際オリンピック委員会(IOC)のコーツ副会長は、記者から「緊急事態宣言下でも開催するか」と問われ、「答えはイエスだ」と明言した。市民が感染におびえ、自粛生活を強いられる環境でも、五輪は開催するというのだ。

 専門家からの異議や世論の逆風を知りつつ、強行突破を図っているようにしか見えない。主催者はあくまでわれわれだとの傲慢(ごうまん)がにじみ出ている。

 IOCや政府に決定的に欠けているのは、国民と向き合う姿勢である。

 日本オリンピック委員会(JOC)の山口香理事は共同通信のインタビューに「平和構築の基本は対話であり、それを拒否する五輪に意義はない」と発言した。「国民の多くが疑義を感じているのに、IOCも日本政府も大会組織委員会も声を聞く気がない」と断じる。

 開催の可否判断は「もう時機を逸した。中止の準備をする時間はない」とし、日本の置かれた現状を「やるも地獄、やらぬも地獄」と表現する。JOC理事の内部告発というより、無力感の表れだろう。国民不在の中、抜き差しならない事態に突き進んでしまった。

 1年前、当時の安倍晋三首相は「1年後に完全な形で五輪を開催する」とIOCに提案し、五輪の意義は「コロナに打ち勝った証し」に変わった。その場しのぎの甘い見通しだったが、安倍氏は政治責任を果たさぬまま退陣した。

 完全な形もコロナ克服も不可能なのだから、後継の菅義偉首相は、再延期を提案するか、それができないのなら理由を丁寧に説明すべきだった。

 中止を求める世論の中には、「なぜ再延期できないのか」という戸惑いも含まれるだろう。「国民の命と健康を守り、安全で安心な五輪」などとごまかし、対話を回避する限り、五輪を見つめる視線はどんどん冷めていく。

 「参加することに意義がある」は、IOCが今も追い求める理想だ。貧困や戦乱でスポーツに打ち込めない人々を援助し、晴れ舞台に送ってきた。観衆は健闘を称え、その境遇に理解を深めた。「開催に意義あり」では、五輪運動の意義が色あせてしまう。