「記事全体として徳島市を非難する材料として取り上げており、徳島市の名誉を貶(おとし)めるものである」-。内藤佐和子市長が阿波踊りを巡る徳島新聞の一連の報道に抗議し、市の公式ホームページ(HP)に「報道に対する市の見解・対応」と題したコーナーを開設した。記事に書かれた事実関係や論評を「事実と異なる」「不適切」と断じ、自身の見解を「正確な内容・適切な内容」と主張している。近年、自らに批判的なメディアを敵視するような政治家が見られるようになった。徳島大の饗場和彦教授(政治学)は「民主主義社会における公権力とメディア、市民の関係が理解されていない背景がある」と指摘する。詳しく話を聞いた。
-阿波踊りを巡る市の対応をどう見るか。
阿波踊りの運営の仕方を変えたいという強い意志を感じる。遠藤彰良前市長が導入した民間委託方式に終止符を打ったかたちだが、市長が変われば政策変更はあり得る。東京のイベント会社に外注するより、徳島の人が自分たちの手でやりたいという発想なら分かる面もある。ただ、その背後に利権を取り戻したいとの打算や遠藤市政への意趣返しが隠れていないか気になる。
コロナ禍で昨年の阿波踊りが中止になり、運営を受託したキョードー東京など民間会社側には損害が生じた。普通、そうした不可抗力の非常時は双方が誠実に協力し合うものだ。しかし、市側は財政負担はしないとして主催組織を解散し、民間会社との契約を打ち切った。民間会社側は相談を求めたが、内藤市長は会おうとしなかった。こうした対応は一方的に見えるし、民法の信義誠実原則の点でもおかしい。
⇨徳島市長、阿波踊り報道に対し本社に抗議文 社は「記事は適切」と回答
-内藤市長は徳島新聞社に抗議文を送り、反論を市のHPに掲載した。市広報広聴課は「市の考えを伝え、市民に理解を深めてもらうため」と説明し、奈良県生駒市や大阪府箕面市などでも同様の事例があるとしている。こうした対応をどう考えるか。
報道に事実関係の間違いがあれば、市として当然、指摘してよい。評価や見方の点でも市として違う見解があるのなら、今の時代、HPで発信してもよいだろう。ただ、今回の徳島市の場合、抗議文や反論文を通読すると、二つの点で疑問を覚える。
一つは、「目をむいて」反発しているようなトーンだ。訴訟も辞さない勢いで、記事6本について反論を言い立てている。個人同士のいさかいであればそんな態度もあるだろうが、行政がここまで過剰に反応するのは異様だ。
内藤市長は民主主義社会におけるメディアの意義を理解していないのではないか。政治には権力が不可欠であり、菅義偉政権のような中央政府にせよ、徳島市のような地方政府にせよ、政府は公権力を背景に社会を統治している。公権力は大きな力であるため、乱用されると市民にひどい悪影響を及ぼす。メディアはそうならないように政府の動向を監視、警戒する。だから、メディアは必然的に政府に対して懐疑的な姿勢で報道する。
私たち市民は、その報道のおかげで政府の善しあしを判断でき、おかしい政権ならば選挙で代えることができる。つまり、統治する側がメディアから批判されるのは当たり前のことであり、それが健全な民主主義社会だ。この基本が分かっていれば、徳島市のような過剰な反発はあり得ない。
-もう一つの疑問とは。
市の反論の中身が雑なところだ。「事実無根」と何度も繰り返し、「到底言えない」「全く理解していない」と強い語調なのに、その根拠は形式論であったり論点がずれていたり、あるいは「言った、言わない」であったりで、全体として説得力に乏しい。法廷論争や学術的な議論には耐えられない主張だ。しかし、これをざっと見た市民は「市が強く反論しているようだから新聞記事にも問題がありそうだ」という印象は持つだろう。理屈よりも印象が狙いなのかもしれない。
-地方でも中央でもメディアを敵視するような政治家が見られる。近年の傾向だろうか。
安倍晋三政権からの特徴だ。安倍内閣は懐柔とどう喝でメディアに対する管理を強めた。政府に近い立場で報道するメディアには特ダネを教えたり会食したり、他方、気に入らないメディアは名指しで排撃したり電波停止処分をちらつかせたりした。
民主主義にはメディアが不可欠だが、そのメディアが機能するには「報道の自由」が保障されていなければならない。政府の干渉があれば、自由に報道しにくくなる。
民主主義を理解している政治家は、いくらメディアが自身を批判しようとも受け止める忍耐と度量を備えている。かつての自民党にはそうした良識があったが、安倍前首相はそうではなく、結果、日本の民主主義の根幹が大きく損なわれた。この傾向が地方政界にも広がったのだろう。
-安倍前首相は「(ニュース報道を批判したことについて)私にも言論の自由がある」と言っていた。内藤市長は11日の会見で「市はこれまで報道に反論する機会がなかった」と述べた。そもそも「言論の自由」とは。
もちろん行政として必要な説明はしなければならない。しかし、首相や首長がメディアに反論する根拠として「言論の自由」を持ち出すのは正しくない。自由権としての人権は、国が個人の自由を妨げてはならないという点に本質がある。言論の自由も、それが権利として保障される主体は市民であり、政府の側ではない。むしろ首相や首長は公人ゆえに一定の自由が制約される立場だ。
安倍前首相の「私にも言論の自由がある」という国会答弁は、憲法や人権に関する知識のなさ、あるいは尊重する意思のなさを露呈するものだった。
-こうした現象を生む背景に何があると考えるか。
阿波踊りの問題をはじめ市政に不可解な点があっても、「森友・加(か)計(け)・桜」など国政に不信な点があっても、政府が不当にメディアを攻撃しても、一般の人はさほど反応しない。学生に聞いても「メディアや野党は批判ばかりでおかしい」という見当違いの答えが返ってくる。政治への無関心と理解の欠如が、今の日本政治の失態を許していると言える。
これを変えていくのは根本的には教育だと思う。北欧などでは小さいころから水を飲むように政治の話をするが、日本の教室では政治の問題は避けられ、その結果、政治に無関心な生徒を育てている。政治権力と市民の関係性や民主主義、立憲主義の本質などを「主権者教育」として教え、政治について自由に率直に語り合える教室に変えていかねばならない。
-メディア側の課題は。
徳島新聞も多少、筆が滑っている感がある。弱い市民の側に付き、強い権力に対抗するのがメディアであるから、阿波踊り問題などで市を追及する姿勢はよい。ただ、そこでは感情的にならず、事実に基づいた報道が求められる。記事の中にはもう少し抑制的な表現、丁寧な説明が欲しいところもあった。
業界全体を見ると、インターネットの広がりで新聞やテレビ、雑誌は経営難に陥っている。そうした状況下で新聞や雑誌は(コラムや論説、解説など)オピニオンを重視する紙面作りになっている。読者は右でも左でも、自分と同じ論調の記事を読むのは心地よいから買ってくれる。
確かにオピニオンは必要だが、ファクトを掘り起こすメディア本来の機能が劣化していないだろうか。週刊文春などのスクープがそこを補っている。SNSなどネット上の情報は誰でも発信できるので、信用できるかどうかは分からない。フェイクニュースが幅を利かす昨今、プロの記者によるファクトの発信は重要度を増している。特に権力を持つ側が隠したがる実態について、調査報道で迫ってほしい。
饗場和彦(あいば・かずひこ)
1960年滋賀県生まれ。読売新聞記者などを経て2007年より現職。専門は政治学、安全保障論、ジャーナリズム論。高校などで主権者教育にも携わる。