「四国旅日記」の冒頭には阿州、土佐、伊予、芸州、讃州と書かれている(県立博物館所蔵)

守川保忠の墓=徳島市八万町

 江戸時代に庶民のものと思われていた四国遍路を武士もしていたことが明らかになった。徳島県立博物館の松永友和学芸員が、徳島藩の武士が書いた「四国旅日記」を研究し、事実を確認した。阿南市の21番札所太龍寺では藩主専用の部屋を訪れるなど武士身分に許される厚遇を受けたことなどが記されている。四国遍路に詳しい胡光(えべす・ひかる)愛媛大教授は「武士の四国遍路を本格的に研究した唯一の論文だ」と評価している。

 松永さんによると、日記を書いたのは下八万村(徳島市八万町)の守川保忠。下級武士橋本梶助の長男鹿太郎(1781~1837年)で、家を継ぐ前に母の姓を使って別名を名乗り、刀装具など金工品を作る内職をしていた。

 遍路は1813(文化10)年2~4月に33歳で実施。阿波で7日、土佐で18日、伊予で11日、芸州(広島)で6日過ごした。18番恩山寺(小松島)から54番延命寺(愛媛)までと、広島の厳島神社を訪れた。

 太龍寺には2月29日参詣。本尊など寺宝を拝観した後、殿様専用の座敷「太守(たいしゅ)様御成(おな)りの間」を訪れた。他の札所で受けたお接待は、餅や赤飯、草履、髪結いなどで、町人や農民と同じ内容。伊予では「珍味」「結構なる御接待」「11の御接待」と記されている。守川は「日々に数々あり、筆紙にも尽くされす」と感謝している。

 日記の巻頭には阿州、土佐、伊予、芸州、讃州と書いているが、18~54番札所以外の記載がなく、日記の続巻がある可能性がある。

 遍路の目的について松永さんは、金工職人として腕を磨くなど見聞を広める狙いがあったと推測した。

 これまでは文字史料が極めて少なく、武士は多忙さやプライド、他藩への移動が自由でなかったことなどから、遍路をしていたかどうか分からなかった。

 徳島藩政史に詳しい郷土史家高田豊輝さんによると、守川が実名を使わなかったのは「武士として接待を受けるのがはばかられたのだろう」と指摘した上で「守川の手形は父が書き父の上司が許可したはず。菩提(ぼだい)寺でキリシタンでないという証明書も受け取ったに違いない。建前上、遍路の目的は心願(願い事)しか許されない」と説明した。

 根津寿夫徳島城博物館長は「武士は殿様との主従関係が非常に強い。守川は家督を継ぐ前の自由の身だからこそ、遍路を実現できた」と分析。中世史に詳しい大石雅章鳴門教育大副学長は「中世の遍路は修行だが、近世は観光を含め大衆化した。今回の研究では武士や庶民らさまざまな人々が巡礼した事実が明らかになった」と話した。

 「四国旅日記」は県立博物館が2013年度に入手。松永さんは今年刊行された愛媛大の四国遍路・世界の巡礼研究センターの紀要6号に論文を発表した。

 近世の遍路日記は約50点残されており、徳島藩家老稲田家家臣で俳諧の宗匠だった山水居蘭室(本名・山下壬生右衛門)の紀行文「春秋の杖(つえ)」もある。