戦後72年、語り部の高齢化で地方の戦禍は忘れられようとしている。しかし平和で自由な今の日本があるのは、戦時下という暗い時代に多くの犠牲があったからこそ。体験者の証言や史料を基に、戦禍の記憶を紡ぐ。

 「72年前の空襲を知っている人は10人もいないだろうな」。吉野川市美郷栗木(くりのき)の上野喜典(よしのり)さん(89)がつぶやく。

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月25日、米軍機が栗木地区(旧東山村)に爆弾1発を投下し、小さな集落は大混乱に陥った。

 当時、戦局の悪化に伴い日本全土が空襲を受けていた。だが山に囲まれた栗木地区は時折米軍機が上空を通り過ぎ、そのたびに空襲警報が鳴るだけ。上野さんは、戦災は人口が多い都市部や軍事施設が設けられた地域の話だと思っていた。

 徳島大空襲(7月4日未明)以外にも各地で空襲があったことが分かっているが、詳しい記録が少なく、被害の全容や目的は分かっていない。

 多くは、都市部の大規模空襲を終えた米軍機が残りの爆弾を投下したとみられている。県内の戦争被害に詳しい郷土史家の湯浅良幸さん(87)=阿南市上中町南島=は「爆弾を海に捨てるぐらいなら、山に投下した方がいいと考えていたのではないか」と憤りを込める。

 栗木地区では、想像もしなかった爆撃で東山国民学校高等科13人と一般人1人が負傷。住民は戦時下の恐怖を肌で感じた。県警察史や美郷村史には当時の被害がわずかに記録されているが、今では72年前の空襲を説明できる住民はほとんどいない。

 上野さんは「終戦間もない頃は住民の間で空襲が話題になることもあったが…。近年は話す機会が全くなくなり、次第と忘れられている。このままではいけないという思いはある」と言う。

山肌に落ちた爆弾で、子どもたちが負傷した現場を説明する上野さん=吉野川市美郷

 徳島市で123人の死者を出した45年6月22日の秋田町空襲。横山正さん(83)=同市佐古五番町=は当時、秋田町3で両親、弟と4人で暮らしていた。家族が命を落とすことはなかったが、直前まで一緒にいた顔なじみが亡くなった。自宅は無残につぶれ、立ち尽くすしかなかった。

 県内では徳島大空襲に次ぐ被害だったため知る人は少なくないが、詳細な記録が残っているとは言い難い。

 徳島市史の他に複数の史料で確認はできるが、概要や被害数に違いがある。横山さんは「投下場所もはっきりしないが、自分が経験したことを残さなければ。写真もない史料だけでは悲惨な現状が伝わらない」と、体験記の作成を進めている。

 県内各地では、戦争の歴史を後世に残す活動が地元住民らによって続けられている。ただ語り部の減少や高齢化で、今後の活動への影響が懸念される。

 阿南市の「那賀川鉄橋列車爆撃を語り継ぐ会」は2003年から毎年、平和のつどいを開いている。約30人が亡くなった45年7月30日の銃撃の概要を説明し、市民に戦争の恐ろしさや平和の尊さを伝えている。

 これまでは列車に乗り合わせていた体験者に惨状を語ってもらっていたが、今年は語り部が来られず、紙芝居での説明になった。

 世話人を務める河野孝子さん(72)=同市那賀川町中島=は「新たな語り部や空襲関連の史料を探すのは難しいが、継続して伝えることが大切。二度と戦争を繰り返さないためにも活動を続けていく」と語った。