1945年3月20日未明、米軍機から投下された爆弾は東郡新居村名田(現藍住町)の民家を直撃し、3人が命を落とした。東京大空襲の10日後で地方への空襲が本格化していない時期。県内では初めての空襲による犠牲者だった。

1945年3月20日の空襲で3人が亡くなった現場付近=藍住町徳命(撮影年不明)

 亡くなったのは久次米トミノさん=当時(52)=と長女のキヌ子さん=当時(22)、二男の荘一さん=当時(17)。トミノさんの孫で藍住町徳命の久次米繁興さん(73)は当時1歳だった。「祖母と、父のきょうだい2人が亡くなったと戦後に聞いた。でも、それ以上のことは聞かなんだ」と言葉少なに話す。繁興さんと父宇佐美さん、母ヨシ子さんも同じ空襲に遭った。亡くなった3人の隣室で寝ていたが、奇跡的に助かった。空襲について話したがらなかった両親は、20年ほど前に他界している。繁興さんの妻和子さん(73)は、ヨシ子さんが生前に語っていたことを覚えている。3人の法事の席だった。爆弾が落ちて動転し、気が付いたら家がめちゃめちゃだったことなどをぽつりぽつりと話し「悲惨な目に遭った。戦争は恐ろしい」と涙を流していたという。

 記録文書もほとんど残っていない。藍住町史では「午前4時、名田に爆弾が落とされ、死亡者は3人」と数行記載があるだけだ。県警察史などによると、小型爆弾が数発投下された。照明弾も使用されており、米軍が何らかの目的を持って空襲していることが明らかになっている。

 こうした資料などを基に85年、戦史の研究家だった故茶園義男さん=元阿南高専教授=らのグループが、現地調査や関係者の聞き取りを行って検証している。調査では、空襲直後に現場を調べた元兵士から「吉野川鉄橋を狙ったものではないか」と聞いた。鉄橋は空襲場所から約3キロ東にあり、高松と徳島を結ぶ鉄道の路線を壊滅するために攻撃目標になり、爆弾が流れたのではないかと推測された。

 繁興さんは「理由はどうあれ、祖母らのように罪もなく犠牲となった人々が大勢いる。これが戦争の怖さだ」と訴える。繁興さん夫妻は今も空襲を受けた場所に居を構え、家族と共に暮らしている。「当時は吉野川を行き来する名田の渡しがあった。戦後に名田橋が架けられて周辺は様変わりしてしまった」と振り返りながら、戦争が歴史の出来事になりつつある状況に懸念を示す。

 これまで県内で語られてきた戦争体験談は、元兵士や戦死者、徳島大空襲の犠牲者のことが中心だったことも指摘し「忘れられがちな空襲被害に焦点を当ててこそ、戦争の実態を次代に伝えることができると思う」と語った。