1945(昭和20年)年6月26日、阿南市那賀川町中島(平島村中島)の那賀川堤防付近で3人が死亡、1人が負傷する米軍機の爆撃があった。近くの那賀川鉄橋上で列車が空襲を受けて約80人の死傷者を出した那賀川鉄橋列車爆撃の約1カ月前のことだった。

 「爆風から守るため目と耳を手でふさいで夢中で逃げた」。下内健さん(83)=同市那賀川町中島、たばこ店経営=は平島国民学校5年だった当時の惨事を鮮明に覚えている。

 午後9時ごろ、堤防から阿波中島駅へと真っすぐ続く約150メートルの砂利道に爆弾約10発が落とされた。現場から北西に約100メートル離れた場所に住んでいた下内さんは母親と妹の3人ですさまじい爆音と地震のような揺れが続く中、自宅近くの防空壕に逃げ込んだ。

 防空壕では母親らと3畳ほどのスペースで身を寄せ合った。自宅は幸いにも直撃を免れたが、爆風でガラス戸が外れ、爆弾の鉄片が屋根を突き破って室内に落ちていた。

 翌日、見慣れた町の変わりように言葉を失った。爆弾が落とされた砂利道は那賀川へ泳ぎに行くためよく通っていたが、爆発の威力で直径3~5メートル、深さ約3メートルのすり鉢状の大穴がいくつも開き、大きく変わり果てていた。

米軍機による爆撃があった阿波中島駅に続く道路を指さす下内さん=阿南市那賀川町中島

 堤防近くでは、親子3人が暮らしていた民家が破壊されていた。父親は足の負傷で済んだが、母親は即死。西隣の家の屋根には爆風で放り出された男児が就寝時に使っていたとみられる蚊帳に巻かれて死んでいた。道沿いの建具屋で夜番をしていた男性も犠牲になった。

 当時は米軍機の接近を知らせる警戒警報が頻繁に鳴り、上空に機影がよく確認された。下内さんは「偵察の帰りに明かりがついていた民家を狙ったのでは」と推察する。

 約1カ月後の7月30日には那賀川鉄橋で悲劇に遭遇した。鉄橋近くで泳いで帰る途中、堤防上で東方向から来た米軍機が列車に機銃掃射を浴びせた。「あんな恐ろしい体験は初めてだった。今思い出しても背筋が凍る」と下内さん。爆撃で大破した列車から逃げ惑う乗客たちに銃撃をやめない米軍機を目の当たりにし、改めて戦争の恐ろしさを感じた。

 平島小学校長を最後に60歳で退職し、現在は阿波中島駅前でたばこ店を営む。爆撃を受けた砂利道は舗装され、周辺に民家も増えた。しかし、当時を知る住民は確実に減っており、史実がこのまま風化していくのではとの思いが年々募る。
 今も砂利道だった道路を通るたびに記憶がよみがえる。「弱い立場にある子どもや女性が犠牲になる戦争を二度と繰り返してはいけない。そのためにも後世に伝えていかないと」と語った。