昨年の徳島新聞「戦時下の暮らし」に投稿しようと、10代の頃の記憶を書き記してくれていた男性がいました。亀岡信弌(しんいち)さん。1928(昭和3)年、那賀郡見能林村、今の阿南市津乃峰町で生まれ、結婚して吉野川市の病院に薬剤師として勤務。退職後は徳島市昭和町で薬局を営んでいました。しかし、亀岡さんは昨年11月30日、その手記を投稿することなく、92歳で他界しました。

 書き残した文章を見つけた娘さんから今年5月、「今年も企画はありますか」と編集局に電話がありました。記者が訪ねると、「出来上がっているのかは分からないのですが、書いていたので」と手書きの原稿を見せてくれました。「私が子どもの頃は戦時中の話は聞いたことがないのですが、亡くなる何年か前から話すように。年をとって誰かに言いたくなったんでしょうか」と娘さんは言います。

 亀岡さんが書き残した「記憶のかけら」を紹介します。

亀岡さんの手書きの原稿。投稿を呼び掛ける新聞記事と一緒に保管されていたそう

 

岡山駅で手渡された切符が生死の分かれ目に 

徳島市昭和町・亀岡信弌(享年92)

 戦後75年を迎えた。齢92歳にして今もなお6月になると必ずよみがえる忘れ難い思い出がある。それは1945(昭和20)年6月28日。人生の生死を運命づけた日である。当時私は旧徳島県立富岡中学校4年生で大阪府下の香里園にある東京第二陸軍造兵廠香里製造所で学徒勤労動員として爆弾の製造に従事していた。それは黄色火薬を蒸気釜で融解して充填(じゅうてん)する作業であった。火薬を含んだ蒸気が室内に充満したため、呼吸するたびに鼻炎、胃炎の症状に苦しめられた。しかも毎週昼夜交替の過酷な仕事の連続であった。特に食べ盛りの少年にとって空腹に耐えられず持参食のハッタイ粉が役立った。

 6月23日に沖縄が激戦の末、米軍の占領に落ち、いよいよ本土決戦が叫ばれ非常事態へと突入した。B29による爆撃は毎日の様に続行した。私は意を決して特攻を志願した。

 帰途、故郷の那賀郡見能林村答島で病床に伏す母を見舞った。恐らく二度と会うことのない母、10年近く病魔と戦う母。涙を耐えて手を握り、何一つ語ることもなくわが家を後にした。語れば母を悲しめることは当然のことであったが、母の顔がまぶたから離れなかった。

 その当時、徳島から阪神方面への交通機関は国鉄しかなく、しかも100キロ以上の長距離は制限され、一旦下車して再度切符を買わざるを得なかった。阿波橘駅から100キロの地点は岡山駅であった。

 岡山駅に着くと、構内は既に大変な混雑で切符売り場には長蛇の列ができていた。一晩中、立ちづめで並んだが切符は買えず、また今夜も夜通しかとつぶやきながら座そうとしたそのとき、見知らぬ中年の男性から声が掛かった。

 「まだ切符買えんのか」「うん」「昨日の昼頃から並んでいるのを見かけたが夜通し立ち通しだったんだろう」「一体何処(どこ)まで行くんや」「大阪まで」「学生が何しにや」「学徒動員で国のために...」「そうか分かった。それなら明石までの切符があるから分けてやる。明石まで行ったら大阪までの省線電車があるから乗り換えたらええわ。分かったか。切符は明石までやから必ず乗り換えるんだぞ...」「うん。ありがとう、助かった」。

 うれしさのあまり涙がこぼれた。「でも切符代金高いんだろう。お金持っとらん」「何言っとんや、学生でないか。実費で十分や、早く急げよ」。

 今は午後4時12分。「発車は20分や。間に合う、走れ」「ありがとう」。

 一目散に駆け出した。うれしさのあまりお礼の言葉もそこそこだった。だがこれが「生死の分かれ目」「九死に一生を得る」ことになるとは夢にも思わなかった。

 やがて列車が到着し、乗車した途端、一安心と疲労とが重なって深い眠りに入ってしまった。何時間眠ったであろうか。車掌に起こされたのは終点大阪駅だった。

 「あれだけ言われたのに寝過ぎて乗り越してしまった」。改札口で3倍の料金を請求されたが、持ち合わせがないため証明書をもらって明石まで引き返した。再度、大阪駅に到着したときは夜の11時も過ぎすべての交通機関はストップしていた。仕方なく禁止されていた梅田ー阪神間の地下道で一夜を明かした。

 行き交う人も多かったが気にもせずリュックサックを枕に新聞紙を敷いて横になったが地上ではけたたましい警戒警報、空襲警報の音。ドリドリという爆弾による地響きを耳にしたが身体にはどうしようもない諦めしか残っていなかった。

 やがて深い眠りに入ったがこの夜、岡山ではB29の爆弾により駅はもちろんのこと、市内の大半が焼失。多大な被災者が続出した。駅の地下街に通ずる階段には幾重にも死傷者が折り重なった。

 

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