「戦争中、一度だけでも米が食べたい、と言いながら亡くなった人もいると聞いた」。7歳で終戦を迎えた宮田忠義さん(77)=美馬市美馬町=が、米を求めた戦時下の暮らしを語る。
米は戦況が厳しくなるにつれ、次第に手の届かないものとなる。働き手や肥料の不足、台湾や朝鮮からの輸入米の途絶えといった理由による。限られた米を国民に平等に配分しようと、1939年、農家が作った米を政府が買い上げる「供出」制度が始まった。同年、白米禁止令も施行され、七分づき以上の米の販売が禁止された。42年には食糧への国の統制を強化するため、食糧管理法を定めた。
農家は家庭で食べる分以外を供出することになっていたが、より多くを家庭に残したい農家と、政府との攻防が続いた。40年7月19日の徳島毎日新聞(徳島新聞の前身)は「お米不正申告 飯米調べ」という見出しで、買い上げに応じない農家が「善良なる農民に悪影響を与える」とし、政府が供出を迫る様子を報道。それでも、農家が残した「闇米」の売買は、政府や警察の目をかいくぐって続けられた。
米の消費を節約する「節米(せつまい)」の重要性も、繰り返し唱えられた。農家だった古高永司郎さん(82)=石井町高原=の家庭でもこのころ、「節米料理」が食卓に並んだ。少しずつ麦飯の比率が増えたほか、大根やサトイモ、葉物野菜、みそ汁とご飯を混ぜた雑炊を食べた。「水っぽくってあまり好きではなかった」と言う。
同年8月2日の徳島毎日新聞では一日1食を18年続ける東京の歯医者を「ウルトラ節米おっさん」として紹介し、節米を啓発。9月4日の同紙は、県内13警察署が8309戸の台所のおひつを調査したところ、国産白米のみ食べる家庭が105戸(農家25戸、消費者80戸)あったと非難している。
人々の食卓から遠ざかる米の代わりに登場したのが、「代用食」と呼ばれる食べ物だ。大豆やそうめん、トウモロコシ、「興亜建国パン」と呼ばれた小麦粉などを使ったパン…。これら代用食の中で、重宝されたのがサツマイモだった。43年、政府は食糧増産応急対策要綱を閣議決定。空き地などでのサツマイモ栽培が本格化し、農家以外の家庭でもわずかばかりの庭に植えられた。
輪切りにして縄を通し、乾かした干しイモが、多くの家の軒下で揺れた。茎も皮をむき、水に浸してアクを抜き、炒め物やおひたしの貴重な材料になった。サツマイモを粉々にし、ワラを混ぜて焼いたパンを食べたという人もいる。
日下雅義さん(81)=徳島市西須賀町=が通った勝浦郡の横瀬小学校でも、校庭の中央部以外がサツマイモ畑になった。子どもたちはイモ作りに励み、秋に収穫すると、今で言う校務員のおばあさんが、大きな釜で煮てくれた。「みんなで食べるイモはおいしかったんですよ」と言う。
子どもの小腹を満たすのにもちょうど良かったようで、美馬重好さん(81)=徳島市国府町=は、学校から帰ると輪切りになった干しイモをポケットに忍ばせて、遊びに行った。
しかし、みんながみんな好んでサツマイモを食べていたわけではない。日下さんの通った小学校では、麦と米を混ぜたものに梅干しというのが平均的な弁当だった。「餅を持ってきている子もいて、うらやましいなあと思っていた」。中身を隠しながら食べる子もいた。「サツマイモだったんでしょうね」。つまり、弁当のランク付けとしては餅、麦飯、サツマイモ、の順だったのである。
ただ、食べられるだけ良かった。都市部の学校などでは、弁当を持って来られない子どもたちが、昼食時間を運動場などでやり過ごす姿が見られた。
今では秋の実りの象徴であるサツマイモ。戦争を生きた人にとっては苦しい食糧難の時代を思い出させるものでもある。