隣家が営むあめ屋をのぞき込むと、おじいさんが粘りがあるものを木の柱にぶっつけては伸ばし、ぶっつけては伸ばしている。餅をつく要領で、どんどん粘りが増していく。作っているのは、サツマイモを煮詰めて作るイモあめだ。

 「70年余り前の光景なのに、まだはっきりと覚えている」と宮田忠義さん(77)=美馬市美馬町=は話す。「砂糖がなくてもイモの甘味で十分、甘かった」。50銭を握り締め、よく買いに行ったという。

 砂糖は日清戦争後に日本領となった台湾からの輸入頼りで、マッチとともにいち早く、1940年に配給制に移行。子どもたちは、ごくまれに手に入る甘味をかみしめるように味わった。

 新聞報道からも甘さを求める人々の姿が伝わってくる。同年7月17日の徳島毎日新聞(徳島新聞の前身)は「少なすぎる砂糖」という見出しの記事を掲載。郡部と徳島市の砂糖の割当量が同じなのは、「過去の消費量に対してなんら吟味が行われていない」結果として、割り当ての増量を県に陳情する徳島市の主張を伝える。

「お餅の砂糖を」の見出しで、砂糖の配給が少ないという徳島市民の懸念を伝える1940年8月22日付徳島毎日新聞

 同年8月22日には「お餅の砂糖を」という見出しで、冠婚葬祭などで団子の一つも作れるようにしてほしいという人々の希望が記されている。

 当時、北島町から松茂町の梨農家へと嫁いでいた小川静枝さん(94)=石井町高原=は手に入りづらくなった砂糖の代用に、梨をすって、こし、炊き詰めてシロップを作った。「ジュースにもなったし、煮物の味付けにも使った」と話す。

 他にも砂糖の代わりに、サッカリンや、今は人体に害があるとして使用が禁止されているズルチンなどの人工甘味料も一般家庭で使われていた。

 43年ごろから終戦までは「船で輸送する際に米国の潜水艦に沈められることもあったし、運べるなら軍事物資が先となり砂糖は後回しという状況だった」と農政研究家の井沢忠蔵さん(84)=徳島農政クラブ名誉会長、徳島市住吉4=は話す。終戦で台湾が日本の手を離れたことで、さらに砂糖不足は深刻化する。

 同市南福島町(現・新南福島地区)に住んでいた泉小夜子さん(74)=同市中徳島町1=は4歳で徳島大空襲を経験する。市街地は焼け野原となった。死者約千人、負傷者約2千人、被災者約7万人を生んだとされている。

 泉さんが空襲の後、家に戻ると、全てが灰になっていた。終戦後しばらくの間、トタンで作った掘っ立て小屋で家族と暮らした。泉さんの楽しみは配給される少量の砂糖を使って、姉が作ってくれる菓子だった。

 かねのおたまじゃくしに水と、貴重な砂糖をほんの少し入れる。しちりんの火で温めると、砂糖が溶けてとろんとしてくる。そこに炭酸を少し加えてかき混ぜると、餅のようにぷくっと膨らむ。そのまましばらくおたまを火にかけると、カルメ焼きと呼ばれる菓子の出来上がり。「外はカリカリで中は空洞。歯触りがよく、おいしかった」

 失敗すると膨らまずにアメのように固まる。「それでもおいしかったよ、お砂糖が入っているからね」。戦後の闇市などでも売られ、そのときにはおたまではなく小さなフライパンが使われた。

砂糖と水と炭酸で作るカルメ焼き。戦後の子どもの楽しみだった(絵・上野隆さん)

 名東郡北井上村(現・徳島市国府町)で子ども時代を過ごした有内澄子さん(77)=徳島市上八万町西山=に記憶として残るのは、一粒のキャラメル。戦後、小学校で村の配給があり、親について行った。本当は幼児用に配っていたけれど、小学生だった有内さんもこっそりもらった。「本当に甘くておいしかった。特別にくれたこともあって、すごくうれしかった。今でも買い物に行ったときにキャラメルを見かけると、このときのことを思い出す」

 砂糖の配給制度が終わったのは52年。12年ぶりに人々は自由に砂糖を売買できるようになった。