「夜がまぶしかった」。井関良幸さん(84)=徳島市通町=は終戦の日の夜をそう表現する。戦時中の夜、家庭では電灯に黒い布を巻き、明かりが漏れないようにしていた。空襲の標的にされないためだ。終戦の日の夕方から、電灯が解禁され、夜の町に明るさが戻った。

 徳島市の徳島駅前から藍場浜にかけては、物資統制を無視して、食べ物や服、日用品を売る闇市が広がった。周囲には、たたき売りをする独特の口上が響いた。1946年1月の徳島新聞には「闇市まん歩」と題された連載が掲載され、闇市の活気のある様子が伝えられた。

戦後、徳島駅前に広がった闇市。さまざまな物が売られた(徳島新聞社所蔵)

 徳島大空襲で通町の書店と家が焼けた井関さんの家族は、蔵本地区の親戚宅に身を寄せ、闇市で本を売った。井関さんは学校帰りに闇市に立ち寄り、親に芋餅を買ってもらうのが楽しみだった。

 「戦争には負けたが、これからは夜の空襲警報で逃げる必要もなく、十分眠れる。戦地に行く必要もなく、将来の見通しが立てられる。頭に載せられた重しが取れた感じだった」と井関さんは振り返る。深刻な食糧不足と、解放感が同時に存在する不思議な時代だった。

 米国からは、小麦やバター、脱脂粉乳などの救助物質が日本に入ってきた。混乱や物資不足が続く中、営業を再開したり、新たにオープンしたりする商店が出始めた。このころの人気食堂の一つは、同市通町3にあった「びっくり食堂」。井関さんは、終戦後に人気が出たNHKのラジオ英会話講座のテキストを店主にあげる代わりに、雑炊を食べていた。

 古高永司郎さん(82)=石井町=もびっくり食堂の常連の一人だった。養蚕に使うクワの苗木を販売していた祖父が、「カレーを食べたことがないなんて恥だ。いろんな料理を食べんといかん」と言って、連れて行ってくれ、カレーや親子丼などを頬張った。

戦後、食糧難が続いていたが食堂も営業を再開。人々の間には戦争が終わった解放感がただよった(絵・上野隆さん)

 古高さんの祖父が先進的だったのには理由がある。「戦前、祖父は地主にカレーを勧められたが、何か分からず『カレーは苦手』と断った。その後、徳島市内で食べてみて、おいしさに感動したと聞いた。そんな経験から、私たちにもいろんな物を食べさせてくれたんでしょうね」と古高さんは話す。

 それまで自給自足の暮らしをしていた農村部にも、米国や進駐軍の影響は広がった。

 勝浦町に住んでいた日下雅義さん(81)=徳島市西須賀町=は、終戦直後に初めてパンを食べた。細長いひし形で、堅くてイースト菌の臭いが鼻をつき、おいしいとは思わなかった。「山間の田舎にも米国化の波が来た、ということでしょうね」と日下さんは話す。そのころ、チューインガム、ダンス、といったカタカナ語もよく耳にするようになったという。

 戦後、子どもたちの栄養不足を補うため、米国や国連児童基金(ユニセフ)などからの援助物資に頼り、戦時中に中断していた学校でも、学校給食が再開された。

 徳島市史によると、51年には徳島市学校給食会が設立され、材料を共同購入しながら、小学校に給食が提供された。パン、ミルク、おかずがそろった「完全給食」の学校もあれば、ミルクとおかずだけ、またミルクだけの学校もあった。市内の全小中学校で完全給食が実現するのは、72年のことだ。

 食糧不足の解消を目指して増産計画が打ち出された米だったが、60年代には早くも余剰気味となり、70年には生産を調整するための減反政策が採用され、それが現在まで続いている。