連載「あのころの食卓 戦時下の徳島」を取材するにあたり、徳島新聞社生活文化部では、読者から戦争中の食にまつわる体験を募った。これまでの記事で取り上げた以外にも、さまざまなお便りが届けられた。一部を紹介しよう。
■ 不運な梅干し
今、母が使っていた二つのかめで、減塩の梅干しを作っている。30年以上前に他界した母の時代には減塩の梅干しはなかった。戦時中、梅を長持ちさせるためたくさんの塩を使った。
私は戦後生まれだが、戦後になっても母の作る梅干しは相変わらず辛かった。食べられないほどの辛さで、砂糖をつけて食べることもあった。母の梅干しに、戦時中という時代が映る。不運なことである。(阿南市 原一博さん、66歳)
■イモのつるやトチの実も
戦局が悪化するにつれて食糧不足が深刻になった。主食は米4、麦4、豆2の割合。それでも一般家庭では思うようにはならなかった。冬にはゆで干しイモを作り、保存。春には野山の草、タケノコを食事の足しにした。サトイモのつるもおひたしにし、トチの実の蒸し団子も作った。今思うと、遠い思い出です。(阿波市 坂本美栄さん)
■魚や肉は常に手に入らず
終戦直後の子どものころ、毎回食べていたのはみそ汁だった。具はジャガイモや菜っ葉類。魚や肉は常に手に入らないので、野菜やイモ中心の生活だった。ご飯も7対3の割合で麦が多かった。豆腐は近くで売っていたが、買えなかった。
しばらくすると、カレーにクジラの肉が入るようになった。煮しめのおかずが多かったのでたまのカレーの日は待ち遠しかった。毎日同じようなおかずでも、それが当たり前だと思っていた。(三好市 喜多俊文さん、71歳)
■少年兵の思い出
愛知県長久手村(現・長久手市)で生まれ育った。14歳で、広島県の大竹海兵団に一般水兵として入団し、徳島県に派遣された。徳島大空襲から数日後のこと。
美馬市穴吹町で、不足する軍用油を補うため、油を松の根から採取するのが任務だった。驚いたのは食事。配食されたのは白米だけの「銀飯」。ハクサイやジャガイモなどの野菜がふんだんに使われたおかずもついた。食糧難の時代だったが、銀飯は終戦で大竹海兵団へ戻るまで続いた。
近くのお年寄りにはトマトやモモを、婦人会にはまんじゅうやいり豆をもらった。食べ盛りの少年兵にとって本当にありがたく、生涯忘れられない思い出だ。(北島町 長谷川嘉美さん、84歳)
■戦時中より厳しかった戦後
戦時中、空襲の直下では「食卓」どころではなかった。大阪で住んでいたが空襲で焼け出され、母と神戸港まで歩いた。炎がくすぶる中、焼け野原をただ、歩いた。道中、赤十字の炊き出しで、野菜の団子汁と雑穀米のおにぎりをもらったことは忘れられない。
終戦後は、社会が極端に利己主義に走った。米不足で闇米が横行。取り締まる警察、それに対抗する復員軍人や一般人。押収しようとした闇米の入った袋が破れて、こぼれ落ちた米に人々が殺到する光景も見た。怒号と悲鳴が周囲に響いていた。人心と食に関しては戦後の方が厳しかった。(鳴門市 土居政利さん、80歳)
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「私は子どもだったから何ともなかったけど、子どもを食べさせねばならない親の気持ちを思うと、何とも言えない」。取材をした人の一人は記者にそう言った。今回、話を聞いた人の大半は戦争中、子どもだった人たちだ。親や家族に食べさせてもらい、生き延びた。
飢えとは、どんな状況にある人間にとっても戦うべき敵だ。そんな飢えを引き起こす戦争が、再び起きないように。子どもたちに飲まず食わずの思いをさせないために。これからの時代をつくるのは、私たち一人一人だ。(あのころの食卓取材班)=おわり