徳島市の阿波踊りは終戦からわずか1年後の1946年8月に復活した。徳島の人々は復興に歩みを重ねるように、阿波踊りに情熱を注ぎ続けてきた。戦後70年がたった今、世界に誇る文化となった阿波踊りの魅力を、当時の新聞報道からひもとく。

 戦後。徳島市の中心部は焼け野原だった。食べ物は乏しく、空襲で焼け出された市民の多くは疎開。残った人々は小さなバラックで暮らし、闇市も立った。

 日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下にあった。徳島県にも45年11月に進駐し、県庁に軍政部が設けられた。何をするにも進駐軍の許可が必要だった。

 満州からの引き揚げ者の姿が目立ち始めた46年春。戦後の荒廃と進駐軍の統治による重苦しい雰囲気を吹き飛ばそうと、誰かれともなく「阿波踊りをしよう」と声が上がった。

 こうした市民の意を受けた県警察部保安課が進駐軍と折衝。8月10~12日の3日間、午後10時まで阿波踊りの許可が下りた。当時の徳島新聞は7月23日付で「何はなくとも明朗に うら盆の三日間、天下晴れて」の見出しと共に阿波踊りの復活を報じている。

阿波踊りの復活を伝える徳島新聞の1946年7月23日付紙面

 記事によると、踊りの場所は公園や主要道路を避けた公道の一部に限定された。「凶器・棍棒(こんぼう)の所持は一切禁止する」との記述があり、まだ混沌(こんとん)とした社会であったことをうかがわせる。会社や町内会など団体で踊る場合は、近くの警察署に届け出をしなければならなかった。

 阿波踊りの復活に合わせて、市内各地で踊り連の結成が相次いだ。娯茶平や天水連など現在も活躍する有名連がこの年に誕生したほか、町内会や職場を単位とする連の姿も数多くあった。
当時5歳だった娯茶平連長の岡秀昭さん(74)は「前川、助任地区の復員者ら28人で結成された。子どもの頃に見た娯茶平の踊りは格好良く、印象に残っている」と話す。

 日中戦争が始まった37年に踊りが中止されて以来、10年ぶりの本格的な開催となった46年8月10日。待ちかねた踊り子たちは町内各所から3人、5人と集まり、いつしか大きな連となって夜まで乱舞した。

 11日付の徳島新聞の見出しには「久しぶり踊る!踊る! 腹は二の次、くり出す人々」との文字が躍った。

 母親に連れられ、徳島駅前で顔におしろいを塗って踊る人々の姿を見た岡さん。「戦後の暗い世の中だったが、みんなの顔はほころんでいた」と振り返る。「やっぱり平和がいい。何はなくとも明朗に、だね」。