徳島市の阿波踊りが復活した翌年の1947年、両国橋通りに戦後初の「競演場」が設けられた。踊りの腕前を競う場で、審査員の眼鏡にかなった手だれの連には優勝旗や賞品が贈られた。
昭和初期に阿波踊りが一時衰退した際、競演会で商品を出して低迷期を脱した経緯があり、戦後も同様の振興策が功を奏した。これを皮切りに、行政や経済団体がこぞって賞金や賞品を出すようになり、戦後の阿波踊りは活況を呈する。
49年には元町と蔵本にも競演場が設けられた。同年8月9日付の徳島新聞には「ことしから始めた元町通りと蔵本駅前の阿波踊競演會(かい)は爆発的人気を呼び、各方面から繰(くり)こむ盛んな踊子團体(だんたい)、これをとりまく観衆も記録的な人出」と記されている。
うずき連の元連長、田村英雄さん(80)=同市鷹匠町=は当時の競演場で踊り見物を楽しんだ。「今の演舞場とは違って輪踊りのような形だったように思う。まだそろいの浴衣の連は少なく、踊りも統一感はないけれど個性的だった」と懐かしむ。
51年には元町、両国通りのロータリーを結ぶ道路の両側に、300メートルにわたる大競演場が出現した。この時期を境に、阿波踊りはショーとして観光客に見せる踊りに変貌し始める。
戦後10年の阿波踊りの歩みを振り返った55年8月12日付の徳島新聞には「ただ円を画(えが)いて踊りまわる単調な方式から、列を編成したり、さし込み(テンポの早くなるところ)を入れたりする演出が加えられるようになった」とある。
阿波踊りが観光資源として新時代に突入しようとした矢先、思わぬ事態が生じる。競演場の撤廃議論だ。
競演場が充実するにつれて、市内全域を流していた踊りが競演場に集中し、近所で気軽に踊る人たちが激減した。観光客から「特定の人しか踊りを見られないのは不公平だ」という声も上がった。
こうした背景から、振興策として続いていた審査制度を52年に廃止し、競演場を「観覧場」に改めて市内5カ所に設けた。それでも連が観覧場に集中する形は変わらなかったため、53年には観覧場も撤廃し、流し踊りのスタイルに原点回帰させた。
同年8月26、27日付の徳島新聞では関係者の座談会を掲載し、観覧場撤廃の是非を検証している。それによると「どこでも踊りが見られる」と見物客に好評だったとする半面、「踊り子には物足りない」との意見もあった。
不安は的中し、連からは「交通状態が昔のようではなく、流し踊りでは踊る場がない」などと不満が噴出。結局、55年に一転して観覧場を復活させることになった。
阿波踊りが一気に隆盛に向かった50年代。踊りの在り方をめぐって熱い議論が交わされた時代でもあった。