夜ごと、風に乗って長唄や三味線の音色が聞こえてきた。昭和初期の徳島市富田町一帯は高級料亭が軒を並べる徳島随一の花街だった。各料亭の座敷では、芸者衆が日頃磨いた芸で客を魅了した。レベルの高さは他県にも引けを取らず、わざわざ大阪の芸妓(げいぎ)たちが習いに来ていたほどだったという。

 磨かれた芸は阿波踊りにも彩りを添えた。終戦後の1946年に踊りが復活すると、芸妓たちも街へと繰り出した。

 「富街流し」。踊り初日の朝から、芸妓が富田町周辺で三味線を弾き、唄を歌って歩くさまは、こう呼ばれた。

三味線や鼓の音を響かせながら歩く富田町の芸妓たち=徳島市新町橋1(1956年8月18日付徳島新聞夕刊)

 55年8月13日付の徳島新聞は「朝八時すぎ、徳島市富田町のネエさん連30名が…やさしい三味の音に乗ってシャナリシャナリと目抜き通りに繰り出せば」と報じた。紫、紺に染めた絹や紗(しゃ)の着物をまとう姿は美しく、粋だった。

 長唄グループの徳島佐苗会・青の会を主宰する杵屋佐篠さん(81)=同市南内町=は当時を知る一人。「三味線を習っていた私は、流しの音色に聞き入った。芸妓さんは唄や三味線をたしなむ人たちの憧れだった」。流しは芸のお披露目の場でもあった。

 10年ほど前に地域の連復活に尽力するなど阿波踊りへの思い入れが強い木村義次さん(96)=同市佐古五番町=も、舞台や桟敷で楽しむ踊りとは違う魅力がある街角踊りを懐かしむ。「まさに庶民の踊り。踊り子と観客の距離はなく、一体感があった」

 地域のつじつじで太鼓や鉦(かね)の代わりに皿や茶わんをたたき、大人も子どもも自由に踊っていた。

 しかし花街や地元の街角で行われていた踊りは、担い手不足が原因で徐々に衰退していった。佐篠さんは「時代とともに芸妓の数は少なくなり、60年代には流しも随分活気がなくなった」とこぼす。

 そんな状況を憂い、徳島佐苗会の会員は62年から毎年、市内のあちこちで三味線の音を響かせる。さらに2003年からは、三味線グループ・阿波ぞめき渦の会も流し始めた。フラダンスサークルと一緒に歩くなど新たなコラボレーションにも取り組む。

 両会は今年も中心市街地に繰り出す。渦の会を主宰する福島俊治さん(67)=同市八万町=は「三味線流しは徳島の芸の高さを感じさせる貴重な文化。絶やしてはならない」。次世代へ街角の踊りを伝えていく。