終戦記念日の8月15日、徳島市の眉山山頂にぞめきが響く。戦没者慰霊塔・パゴダ前で毎年行われている無双連による奉納踊り。演舞場では笑顔で一心不乱に舞う天水たちも、この時ばかりは70年前に思いをはせ、神妙な面持ちで踊る。

 パゴダにはビルマ(現ミャンマー)戦線で亡くなった県人6216人を含め、太平洋戦争の戦没者13万3576人が祭られている。無双連の岸大輔連長(42)=同市伊月町5=は「戦争で亡くなった人のためにと思うと気が引き締まる」と話す。

 1937年に始まった日中戦争以降、中止を余儀なくされた間に踊り子たちが抱いたやりきれない思いは想像に難くない。

 「今年は平和日本へ驀進(ばくしん)する阿波徳島の発展の烽火(のろし)として踊って踊って踊り抜こうと徳島市の一隅にはすでに用意万端」。復活を報じる46年7月23日付の徳島新聞からも、踊ることができる喜びが伝わってくる。

 「何といっても久しぶりの平和なお盆だ」(46年8月13日付)「盆踊りのリズムには県民の平和を歓喜する声が率直に盛られ」(47年9月1日付)。紙面には「平和」の文字が並んだ。

 復興が進むにつれて阿波踊りの規模も大きくなっていく。49年は「戦後四たび迎えるきょうの日、復興進む徳島市の息吹を反映してかつてみない阿波踊りの一大競演」(8月9日付)と、華々しい開幕の様子を伝えている。

 パゴダでの奉納踊りが始まったのは、阿波踊りの記事から戦後の面影が薄れつつあった59年。徳島新聞は、パゴダ前で乱舞する様子を写真付きで報じた。

徳島市の眉山山頂にあるパゴダ前で奉納踊りをする踊り子=1959年8月16日付徳島新聞朝刊

 「慈光寺住職の広瀬瑞応師の手で供養を営み、そのあとパゴダ横で迎え火(かがり火)をたいて戦没者九万五千の霊を呼び…奉納阿波踊り会を開いた」(8月16日付)。64年8月20日付では見物客が詰め掛けたことも紹介されている。

 「遺族の方に大変感謝されたのを覚えている。こちらも胸のつかえが取れたような感じでね」。無双連の2代目連長を務めた服部欣二郎さん(78)=同市富田橋1=は、天正連の一員として踊った当時を振り返る。

 パゴダを建てた県ビルマ会の会員が天正連にいたことがきっかけで始まった奉納踊りは、66年に発足した無双連によって今も受け継がれている。

 服部さんは言う。「平和な時代だからこそ阿波踊りができる。それは大きな犠牲の上にできたものだ。世界のリーダーにはぜひ阿波踊りを見に来てもらいたいね」

 焼け野原から復活した阿波踊りは「平和の象徴」でもある。「二度と中止されることがあってはならない」。そんな平和への願いを込め、踊り継がれていく。