1945(昭和20)年7月25日、正午前。香川県方面から来た米軍のグラマン2機が穴吹町(現美馬市穴吹町)の上空を飛んだ。

 穴吹町穴吹の中西秀子さん(83)は当時小学5年生。近くの水路で友人2人と一緒に魚のつかみ捕りをしていた。

 けたたましいエンジン音に振り返ると、高越山の方へ飛び去ったはずの機体がこちらに向かって旋回するのが見えた。2人乗りだと分かるほどの低空飛行だった。

 「自分たちを撃つために旋回した」。そう思い、持っていた竹製の容器を頭にかぶると3人で水路に身を隠した。

当時遊んでいた場所に立ち、米軍機が旋回した方角を示す中西さん=美馬市穴吹町穴吹

 直後にごう音が響く。米軍機が落とした爆弾は八幡神社の東約120メートルの水田に落ち、土を辺りに飛び散らせた。中西さんらがいた水路は落下地点の南西約200メートル。稲の付いた大きな土の塊が飛んでくるのが見えた。3人は「かあちゃーん」と泣き叫びながら近くの民家に駆け込んだ。

 米軍機が去り、ぼうぜんとして自宅への道を歩いていると、母親が必死に捜していた。泣きながら抱き合った。「『家族に黙って遊びに行くな』と、ものすごく怒られた」。思い返して笑えるのも、命あってこそだ。

 旧穴吹町助役の中村正一さん(92)=穴吹町穴吹=は出征し、ソ連のタシケント(現ウズベキスタン)で抑留されていた。戦後、帰郷すると、母親の三宅マキさん(故人)がこの爆撃のことをよく話していた。「家の前で、上空の米軍機から何かが落とされるのを見た。空の燃料タンクだと思っていたら、まさかの爆弾。爆発に驚いて隣の家に入り『どないしょう』と震えていた」

 妹の延子さん(故人)の話では、落下地点から70メートル付近の畑で農作業をしていた父親の故覚蔵さんは田の土をかぶり、泥だらけで戻ってくると「怖かった」とつぶやいた。落下地点と畑の間に鉄道が走っており、線路の土手が爆風を遮ってくれたという。

 「もし線路に落ちていたら、敷石などが広範囲に飛散し、多くの人命が失われていたかもしれない」。中村さんは改めて、生きて両親と再会できた「幸運」に思いをはせる。

 落下地点から約350メートルの自宅にいた加美久恵さん(83)=穴吹町穴吹=は当時小学6年。爆発音と同時に窓ガラスが割れた。「押し入れから布団を出してくるまった。これまでの人生で一番怖かった。戦争はいかん。もうこりごり」

 穴吹町史によると、田にできた穴は直径12メートル、深さ3メートル。後に水がたまって池になったが、10年以上たって埋め戻された。今は雑草が生い茂っている。=おわり