徳島大空襲があった1945(昭和20)年7月4日未明、焦土と化す徳島市街地から約30キロ離れた阿波郡八幡町(現阿波市市場町)やその周辺部も空襲に見舞われていた。
戦時中の出来事に詳しい「市場飛行場を語り継ぐ会」(二條和明会長)によると、同日午前4時すぎ、米軍機が高松方面から南に向かって飛行し、八幡国民学校(現八幡小)から吉野川の中州・善入寺島まで、約3キロの区間に焼夷(しょうい)弾計4発を落とした。

 1発が民家に直撃し、お年寄り1人が亡くなったほか、子ども1人が大やけどの重傷を負ったとされる。

 この記録は、地元の郷土史家で語り継ぐ会前会長の故・大塚唯士(ただし)さんが20年ほど前に複数の住民から聞き取りをしてまとめた。市場町史にも記述はあるが、詳細な被害については触れていない。

 1発目の焼夷弾が落ちたのは同市市場町大野島の三浦眞作さん(68)方の軒先。遍路道沿いの一角にあり、八幡商店街としてにぎわっていた地域だ。幸い不発だったものの、コンクリートの地面に大きな穴が開いた。

 当時17歳だった島田初栄さん(89)は道を挟んで西隣に住んでいた。大きな衝撃音で目が覚め、間もなく両親が「爆弾が落ちたぞ」と大声で叫んだ。外には人だかりができており、恐る恐るのぞき込むと、濃い灰色をした焼夷弾が地面に横たわっていた。

 大惨事は免れたものの、住民には戦争の恐怖がすり込まれた。島田さんは「空襲とは無縁の田舎と思っていたけど、急に怖くなった。終戦まで全然安心できなかった」と話す。

焼夷弾が落とされた場所で、島田さん(右)から当時の話を聞く三浦さん(中)と二條さん=阿波市市場町大野島

 八幡国民学校6年生だった近くの笠井明さん(83)は、1人が亡くなった光景が忘れられない。

 焼夷弾が直撃した民家があると聞き、急いで向かっていた時だ。近隣住民が大やけどしたおばあさんを戸板に乗せて病院へ運ぼうとしていた。既に亡くなっていたのか、後に亡くなったかは分からない。記憶は薄れつつあるが、その姿だけはしっかりと覚えている。

 「焼夷弾が落とされるまでは『神風が吹くぞ』『日本は勝つ』とかみんなで言っとったんやけどな・・・。空襲警報が鳴るたびに、びくびくしとったわ」

 なぜ八幡町周辺が狙われたのか。

 7月4日は徳島大空襲だけではなかった。ほぼ同じ時間帯、隣県の高松市街地も大規模な空襲を受けていた。8割が焦土となり、約1400人の死者が出た「高松空襲」。語り継ぐ会は、米軍機の飛行方向や焼夷弾の投下数などから、高松で余った焼夷弾を民家が密集した地域に落としたとみる。

 太平洋戦争末期の当時、隣の旧市場町では徳島海軍航空隊の秘密基地(市場飛行場)が建設されていた。笠井さんは「基地が標的になっていれば、一帯は本格的な爆撃に巻き込まれていただろう。もっと凄惨(せいさん)な被害が出たかもしれない」と語った。

 県内の空襲の被害状況を伝えた前回の報道後、多くの体験者から情報が寄せられた。引き続き戦禍の記憶を紡ぐ。