「キーン」という鋭い音を出し、西の空から1機の米軍機が迫ってきた。機銃掃射で狙われ、とっさに桑畑に飛び込んだ。「数秒の出来事だったが、72年たった今も鮮明に覚えている」。吉野川市鴨島町の川人勇さん(86)は太平洋戦争中の体験を思い起こす。

 終戦間近の1945年8月10日ごろ、旧制麻植中学校(現川島高校)3年生だった14歳の川人さんは、吉野川を挟んだ対岸の市場町(現阿波市市場町)で建設中だった徳島海軍航空隊の市場飛行場にいた。

 夏休みに入り、学徒動員として大勢の同級生らと滑走路の整地に携わっていた。正午すぎ、「敵機来襲!待避せよ!」と大きな声が響いた。目に入った低空飛行の米軍機がだんだんと近づいてくる。機銃掃射が始まり、滑走路には土ぼこりが舞う。数メートル先に多数の銃弾が撃ち込まれ、真横に飛ぶように逃げて何とか命拾いした。とっさの行動だった。

 生死の分かれ目は紙一重だった。土砂を運搬するトロッコの脇に身を隠した同級生は、銃弾が当たったトロッコの破片が顔に直撃した。顔から大量に出血して気絶し、病院に搬送された。それ以来、同級生とは会っておらず、安否は不明という。

 「戦時中に命が狙われたのは最初で最後。まるで映画のような光景だったが…。やはり実際の被害を間近で見ると怖かった」。今でも記憶は鮮明で、思い出すと恐怖心がよみがえる。

 市場飛行場は、周辺約120戸が軍によって強制的に立ち退きの命令を受け、本土決戦に備えた内陸部の「秘密基地」として急ピッチで造られていた。時間的猶予はなく、空襲で少年が大けがを負っても作業は淡々と続けられていた。

 戦禍が少なかった郡部の子どもたちでも当時の軍国教育は体に染み込んでいた。川人さんも9月には陸軍に入隊する予定で、日本のために命をささげる覚悟だった。「もう1年戦争が続いていたら死んでいただろう。今考えたらばからしいが、そんな時代だった」と憤る。

 戦後もしばらく食糧難で厳しい生活が続いた。少年時代は暗い記憶しかなく、人権を無視した戦争は二度と繰り返してはいけないと主張する。「当時の悲惨さを語り継ぐことは大事。ただ、その体験談を聞いた人たちが平和な世界の実現に向けて行動していくことが大切になる」。次世代への継承と不戦への行動力―。北朝鮮情勢が緊迫する状況もあり、その重要性を、川人さんは力強く訴える。

 米軍機の機銃掃射で狙われた体験を語る川人さん=吉野川市鴨島町鴨島の自宅