太平洋戦争末期の1945年、小西久子さん(90)=同市上八万町=は3月から7月にかけて3度の空襲に遭った。当時18歳。「無我夢中で、必死に生きるだけだった」と振り返る。

 最初は3月13日の大阪大空襲だった。当時大阪市に住んでおり、家を焼かれた。自宅を失ったため、両親と共に叔父を頼って徳島市秋田町に移り住んだ。近くの軍需工場に勤めるなど新生活に慣れ始めた3カ月後、再び悲劇に襲われた。

 6月22日午前、空襲警報のサイレンが鳴り響く。工場にいた小西さんは「いつものように阪神方面に行くのだろう」と思った瞬間、強烈な爆発音と地響きが起こった。

 思わず身を伏せたが、爆風で割れたガラスが降り注ぎ、頭や腕に刺さった。近くの富田小学校で手当てを受けた後、急いで家に戻った。しかし跡形もなくなっていた。爆弾が直撃していた。
母親は叔父の子どもたちを連れて避難していたが、父親が見当たらなかった。消防団員に協力してもらい、家があった周辺を懸命に探した。「無事でいて」との願いかなわず、変わり果てた姿で見つかった。

 父は、顔の見分けがつかず、片方の脚がない状態。あまりにもひどく、言葉を失った。担架で遺体安置所に運ばれた父の顔を眺め、一晩中泣き明かした。

 悲しみも癒えない中、さらに惨事が襲う。7月4日未明、B29爆撃機からおびただしい数の焼夷(しょうい)弾が徳島市内に落とされた。徳島大空襲だった。小西さんは秋田町空襲で負傷した叔父を大八車に乗せ、園瀬川まで必死の思いで逃げた。

 河原は避難してきた人々であふれかえり、振り向けば炎に包まれた市街地が真っ赤に染まっていた。

 焼夷弾が収まり始めた頃、今度は艦載機が襲ってきた。大八車の下に身を隠すが、執拗(しつよう)な機銃掃射を受けて身動き一つできない。周辺から聞こえてくる無数のうめき声に「もうこれまでだ」と覚悟を決め、父の位牌(いはい)を固く抱きしめたという。

 幸いにも九死に一生を得たが、その後も艦載機に再三襲われるなど生きた心地がしなかった。「つらく厳しい時期だったけれど、皆が心一つにして助け合ったことだけは良かった」

 終戦から70年余。殺人事件やいじめなどのニュースが流れるたび、「あの頃の助け合いの精神が薄れてきているのでは」と思う。戦争を繰り返さないという意味だけではなく、日常生活にある「平和」も見つめ直してほしいと切に願っている。

秋田町空襲など3度の空襲を経験した小西さん=徳島市上八万町の自宅